円谷プロへ -上原正三 Advent Calendar 2020 1日目-

はじめに

2020年1月2日、一人の脚本家が亡くなりました。その脚本家の名前は上原正三。1937年2月6日生まれ。沖縄県那覇市出身。私の父は1938年11月生まれですので彼は父より1年年上、2学年上ということになります。残念ながら上原正三さんとお会いしたことはございませんが、彼が脚本を書いた作品を観て私は育ちました。多作な人でしたが、途中何度か誘いはあったものの、子供向けの作品ばかり書いていました。そしてどの作品も一本芯が通っていました。今年はそれを振り返るべく、Advent Calendarを立ち上げました。今回は彼が全国デビューを飾ることになる円谷プロに入るまでを取り上げます。

沖縄での幼少期、上京そして挫折

上原正三は警察官の息子として誕生しました。1944年9月、太平洋戦争の激化により、彼は家族とともに台湾へ一時疎開することになりました。上原の父親は警察署の署長を務めていたため、沖縄に残り、その他の家族だけが疎開しました。あくまでも一時疎開の予定でしたが、台湾から那覇へ戻るための船に乗った後、1944年10月10日、米軍が那覇など南西諸島各地を空襲したことにより、那覇への帰還は不能になりました。上原が乗った船は海上を漂流することになり、途中、米軍の潜水艦に襲われかかり文字通り死にそうな目に遭います。しかし2週間の漂流後、船はなんとか鹿児島に漂着。九死に一生を得ました。鹿児島に上陸後、上原正三一家は熊本へ移り終戦を迎えました。

 

1946年に上原一家は沖縄に戻り、上原は沖縄で育ちます。そして琉球政府那覇高等学校に進学しました。ここで「琉球政府」という言葉が出てきましたが、終戦後の沖縄は日本の統治からは切り離されてアメリカの信託統治下にありました。そのため、「琉球政府」が沖縄を治めていたのです。高校生の頃は映画「シェーン」に夢中だったそうで、これが後に脚本家になるきっかけになったようです。

 

高校卒業後、上原は中央大学文学部に進学し、上京します。上述した通り、当時の沖縄は日本政府ではなく琉球政府の統治下です。ですから、彼はパスポートを持って日本に入国しました。東京では下宿先を決めるのに苦労するなど、琉球人に対する差別を否応なく受けることになりましたが、この体験もまた上原正三の作風に影響を与えています。大学時代からアマチュアで脚本を執筆し、沖縄戦や米軍基地をテーマにして脚本を書いていました。東京には親戚がいたそうですが、上原はその件について、沖縄タイムスの記事「ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー」ではこう語っています。

―55年当時、本土での沖縄差別は露骨だった。

 「高1の時、東京で暮らす親戚が『九州出身』にしていると知った。しかも本籍まで東京に移してさ。これは突き詰める必要があると。『俺は琉球人だ』との気概で東京に乗り込むと、親戚は歓迎してくれない。キャンディーやチョコ、リプトンの紅茶など、基地でしか手に入らない土産を嫌がったな。その後、僕も部屋を貸してもらえなかった。これが『琉球人お断り』かと知った」

 ―それでも、ひるまなかった。

 「『ウチナーンチュを標榜(ひょうぼう)して、ヤマトゥ(本土)で生きる』が僕のテーマ。沖縄を差別するヤマトゥンチュとはどんな人種なのか、俺の目で見てやる。そんな青臭い正義感を抱いて、60年がたつ」

 

こうして上原は東京で暮らしていたわけですが、大学卒業後、肺結核にかかってしまいました。そのため、大学卒業後は脚本家になることを諦めて帰郷を余儀なくされました。そのため、彼はしばらく親から小遣いをもらいながらブラブラするという生活を余儀なくされました。後に円谷プロで出会う盟友市川森一が1993年に書いたドラマ「私が愛したウルトラセブン」では上原正三が「ウルトラセブン」放送中に肺結核のため喀血して療養する様子が描かれていますが、その場面は上原のこの時代を踏まえて描いたものなのでしょう。もっとも、後の稿で書く通り、「ウルトラセブン」制作時は療養などしておらず、ドラマの描写は(事実を基にしてはいますが)フィクションです。

金城哲夫との出会い

こうして実家でブラブラしていた上原に転機が訪れます。以下は白石雅彦著「ウルトラQ誕生」の記述に基づいています。この本の第3部にはこの当時の上原の話が載っています。上原自身へのインタビューに基づく証言も載っています。

 

1963年の冬、25歳の時、金城哲夫という男と出会うのです。金城は1938年7月5日生まれで上原よりは1年年下、2学年下です。彼も沖縄にルーツを持つ男で、この時は生涯で最初で最後となる監督作品「吉屋チルー物語」という映画を撮影していました。上原の母親の茶飲み友達だったおばさんを通じて金城に上原の話が伝わったのです。金城は既に「絆」というドラマで全国デビューしていました。そして金城は「吉屋チルー物語」の編集に沖縄の実家で勤しんでいました。もっともこの時は会っただけ。上原自身はヌーベルバーグに傾倒していたので、今時なぜ沖縄の古典劇を作るのか、と違和感を覚えたそうです。同じく沖縄タイムスの記事「ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー」ではその時のことをこう語っています。

俺が沖縄の現実を映画で告発しようと考えている時、金城が作っていたのは遊女の悲恋物語。俺が琉球人として生きる決意した時、あいつは玉川学園で『金星人と握手する会』を作って活動していた。発想のスケールが大きすぎるんだよ

 

ですが、その年の夏、更に転機が訪れます。一旦東京に戻っていた金城が帰郷し、上原に速達を送ってきたのです。曰く、テレビ映画を作るので手伝って欲しい。それは「沖縄物語」という刑事ドラマで脚本は灘千造。金城は助監督を務めていました。金城は自分の仕事を手伝って欲しいと言って来たのです。金城の誘いは強力だったようで、最終的に上原はその話を引き受けることにしました。ただし、病み上がりなので初めは助監督ではなく制作進行としての参加でした。制作は沖縄で行われたようですが、上原曰く、本土から来たスタッフと沖縄のスタッフのやり方が違うのでうまく行きませんでした。そのため、最終的に上原は助監督も務めることになってしまいました。そして「沖縄物語」は3本制作されました。

 

円谷一との出会い

さて話はこれで終わりません。金城は更に「仕上げを東京でやるから一緒に行こう」と上原に言って来たのです。上原は当時を振り返りながら「金城の本音はね、円谷英二さんを紹介しようという腹があったと思うんだ。」と語っています。おそらくそうでしょう。まず金城は本多猪四郎が監督した映画「海底軍艦」の特撮を撮影中の円谷英二に引き合わせ、次に円谷英二の長男でTBSで活躍していた円谷一に上原を紹介します。円谷一は1962年の芸術祭で大賞をとったドラマ「煙の王様」を監督した直後で、自分が演出した作品でも金城哲夫を起用していました。なので上原を脚本家として使ってくれとの意図が金城にあったのは間違いないと私も思います。しかし、一の返事は「ウルトラQ誕生」での上原の証言によれば次のような感じでした。

上原  金城としては僕をなんとか脚本家にしようと、円谷一さんに引き合わせたわけだけど、世の中そう甘くないよね。金城と故郷が同じだけで、どこの馬の骨ともわからないものを脚本家にしてくれ、って言われても、「はい、どうぞ」とはいかないよ。だから一さんは「脚本家になる近道は賞を取ることだ。まずは賞を取れ」と言ったんですよ。まあ、厄介払いだね(笑)

一見、冷たい感じを受ける話かもしれませんが、一の立場になれば、そう言いたくなるのも無理はないでしょう。日頃から脚本家志望の人と出会うことも多かったのかもしれません。さて「ウルトラQ誕生」で書かれているのは、この件についてはここまでなのですが、私は金城哲夫の人の良さ、というより、純粋さも感じる逸話なのではないかなと思いました。

芸術祭奨励賞受賞、そして上京

 しかし、この言葉を聞いた上原は奮起しました。上原は沖縄戦をテーマに「収骨」という作品を描き上げます。沖縄戦で戦死した人の遺骨を探し集めるという話です。これは1964年の第19回芸術祭のテレビドラマ公募脚本部門で奨励賞を取りました。そして1965年初頭、上原は上京。円谷プロの門をくぐりました。金城哲夫は喜んで出迎え、上原はしばらく金城の仕事を手伝うことになりました。当時、金城は円谷プロの企画文芸室の室長。もっとも円谷プロは「ウルトラQ」の制作が始まったばかりで企画文芸室に在籍していたのは金城哲夫だけという状態でした。上原はしばらくは無給で手伝ったようですが、程なくして円谷プロの社員となりました。こうして上原正三は脚本家として第一歩を歩み始めたのでした。

 

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