橋本洋二

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」のTBS側プロデューサーだった橋本洋二について簡単に取り上げます。

ウルトラシリーズに参加するまで

橋本洋二は1931(昭和6)年生まれです。出生地は鳥取でしたが、後に一家は東京へ転居しました。東京教育大学を卒業後はラジオ東京、後の東京放送ことTBSに入社しました。本人の希望で社会部に入ったのですが、その時の上司が大森直道で、後にオックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」をTBSが肩代わりするのを決断した人物です。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」で白石も書いていますが、人の縁は何かの拍子で拍子で繋がる物なのでしょう。さて橋本が制作していたのは差別問題を取り上げたラジオ番組でした。これが後のテーマ主義に繋がるのは間違いありません。ですが、大森の要請に応え、テレビ編成局映画部へ移りました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」での橋本自身の証言です。

橋本「テレビ編成局映画部に来なさい」ということでした。もちろん僕も、テレビの方に移りたい、と希望を出していたんですよ。『ウルトラマン』を観ていて、これは絶対にやりたい、と思いましたからね。子供の頃からSF冒険小説が好きだった、というのはあります。当時、毎日小学生新聞というのに、海野十三の『火星兵団』が連載されていたんです。それが楽しみでね。毎朝早起きして、新聞受けがカタッと鳴ったらすぐ飛びついて読んでいました(笑)。ほかに山中峯太郎の『見えない飛行機』とか江戸川乱歩の『怪人二十面相』とか、そういうものばかり読んでいたんです。

というわけで橋本は円谷一も所属し、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』にも社員を出向させていた映画部へ移ったのでした。1966年のことです。最初は昼メロの制作や邦画の買い付けを担当していたのですが、『コメットさん』を担当したことで転機が訪れます。この番組を担当した理由は白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」によれば、次の通りでした。

橋本 僕はラジオで子供向け番組を二年半くらいやっていたんです。だから局のムードとしては、あいつは子供向けが得意そうだ、ということだったんですね。


『コメットさん』は、昼帯を担当していた時期とダブりますね。当時は佐々木君(佐々木守)とブレインストーミングで毎日のように会っていました。『コメットさん』の企画作りには、親交のあった山中恒も顔を出していましたが、二人がしきりに「お前も手伝え」と言うんで、参加したんですよ。『コメットさん』は国際放映との共同制作でしたが、そこのプロデューサーともめましてね。佐々木君と一緒にその方と会ったんですが、僕らはコメットさんの衣装はミニスカートをイメージしていました。そうしたら向こうは「そうじゃない、戦争中のもんぺ姿だ」って(笑)。全然違うから喧嘩になっちゃいましてね。それで「お前がやれ」みたいなことになった。ただ企画には最初から関与していたし、やれと言われても問題はありませんでした。

私は完成作品しか見たことがありませんが、主役のコメットさんがもんぺ姿というのは全く想像できません。『コメットさん』には途中から市川森一も参加しています。おそらく橋本が子供番組に関わるようになったのはこれがきっかけなのでしょう。

ウルトラセブン

さて橋本は「ウルトラセブン」のプロデューサーになりました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」によれば、円谷英二の日記に橋本の名が初めて出るのは1968年2月29日だそうです。そして橋本洋二の記憶と他の資料を突き合わせると、橋本洋二が「ウルトラセブン」の制作に本格的に関わるようになるのは満田かずほが演出した第28話「700キロを突っ走れ!」と第29話「ひとりぼっちの地球人」からのようです。

さて、昔は橋本の参加により「ウルトラセブン」がドラマ重視になった、と特撮ファンの間では言われた物です。私もそう思っていました。しかし、白石雅彦著「『ウルトラセブン』の帰還」でも「『怪奇大作戦』の挑戦」でも再三再四書かれていますが、実態は違います。橋本参加の真の目的は「ウルトラセブン」の次の作品をどういう内容にするのかを決めることでした。なので「ウルトラセブン」制作自体は引き続き三輪俊道プロデューサーが中心になって行なわれ、橋本は「ウルトラセブン」の後継作品の企画を決める事が業務の中心になっていました。事実、白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」では橋本も上原正三もこう証言しています。

橋本 そうです。プロデューサーを代わったわけではなく、諸々のリサーチですね。『ウルトラセブン』の後半に何本かフィルムを見せてもらって、金ちゃん(金城哲夫)を紹介してもらったんですよ。まず僕が思ったのは、隊員達が「はい」「はい」って言っているのがわからなかった。隊員達それぞれ、違う考えがあってもいいはずなのに、判で押したように「はい」「はい」。これは昔の軍隊と同じでしょう。だからそういうふうじゃないドラマを書きたいと言ったんです。後にウエショー(上原正三)が、「あれを聞いて、金城がひっくり返っていましたよ」って言ってましたね(笑)。だから円谷プロは僕のことを「変なやつが来ているな」と思っただろうし、そういう意味では、決して評判のいいプロデューサーだったとは思わないです。

上原 橋本さんは、プロデューサーというより有能な官僚という感じだったね。それで企画室に入るなり「隊長は〝出動!〟しか言わないんですか?」って言ったんです。「例えば朝、奥さんと喧嘩をしてきたかも知れない。だとしたらその日その日の感情で、同じ〝出動!〟でも違うニュアンスがあるはずだ、とね。脚本の台詞まで口を出すプロデューサーは、それまでにいなかったからね。それほど脚本には厳しかった。理詰めで来るからね。僕や市川(森一)は、プロットを何本もボツにされたよ。

その本領は「怪奇大作戦」から発揮されることになります。

怪奇大作戦

さて「怪奇大作戦」は「ウルトラセブン」の次作品です。ここで橋本は本格的に円谷プロと制作に関わることになります。その経緯についてはこちらを見てください。

hirofumitouhei.hatenablog.com

制作第1話は金城哲夫が脚本を書き、円谷一が演出した「人喰い蛾」でしたが、この話は円谷英二が作り直しを命じたために放送第1話には間に合わず、制作第2話「壁ぬけ男」が繰り上がってしまいました。この一件は金城哲夫円谷一の二人に影響を与えました。橋本洋二は白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」でこう証言しています。

橋本  要するに「スパイ大作戦」に影響されていたんですね。僕は、そういったものをやる気ない、ちゃんと人間を描いたものをやらないといけない、と伝えていたんですけど、あの頃金城さんは、「マイティジャック」の方で忙しかったでしょう。だからあまり打ち合わせをする時間がなかったんですね。その成果、企画書が出来ても、僕の考えとは根本的に何かが違っていたんです。

白石は同書で、橋本洋二が思い描いていたのは橋本が考えていた路線は「スパイ大作戦」ではなく「七人の刑事」のそれなのだ、と書いています。「七人の刑事」は犯行を冒した人間のドラマを描いた作品でした。金城も円谷一もそのようなドラマを得意にはしていませんでした。ですが円谷一は映画部の最古参メンバーでしたし、当時のTBS局内での肩書きはテレビ本部編成局映画部副部長・副参事でした。なので「人喰い蛾」は、円谷一が「これをやりたい」と言えば、それを通さなければならない空気があったので作る事ができた作品だったのでしょう。そう、白石は推測しています。ただ円谷一は「人喰い蛾」の後は九州でロケした「吸血地獄」と「光る通り魔」を演出しただけでした。それは、この頃から円谷プロダクションを取り巻く状況が悪化したことも影響していたのだと白石は推測しています。

結局、「怪奇大作戦」は2クール全26話で終了しました。怪奇大作戦」の平均視聴率は22.0%でした。この後も橋本洋二は子供番組の制作に関わっていきます。「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」が放送されていた日曜夜7時からのタケダアワー、そして『コメットさん』が放送されていた月曜7時半からのブラザー劇場。これが後々「帰ってきたウルトラマン」の制作に繋がっていくことになるのです。

adventar.org