ウルトラマンが帰ってきた - 帰ってきたウルトラマン Advent Calendar 2021 -

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」の企画が始まり、制作が始まるまでの経緯の概要を取り上げます。

金城哲夫上原正三円谷プロを去る

怪奇大作戦」終了後、円谷プロは番組制作が途絶え、冬の時代を迎えていました。当然、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」そして「ウルトラセブン」制作時に累積した赤字を解消する目処は立ちません。そのため、円谷皐は新たに円谷プロに参加した有川貞昌と共に人員整理と負債問題の解決に着手しました。有川は円谷英二の弟子で円谷英二に請われ、1968年12月6日の総会で役員になっていました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」で白石が生前有川から聞いた話として

その時有川は「これで昔のように、オヤジと一緒に楽しく仕事が出来る」と思ったそうである。

と書いています。閑話休題。この人員整理で円谷プロの社員は150人から40人まで削減され、それまでなかった営業部が新設されました。金城哲夫上原正三が所属していた企画文芸室は解体され、企画文芸室所属のメンバーはプロデューサー室へ異動となりました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」では、企画課ノートに書かれた金城哲夫の記述が紹介されています。

12月12日。(木)雨。プロデューサー室誕生。室長・有川貞昌。プロデューサー。守田康司。野口光一。金城哲夫。宮崎英明。上原正三。新野悟。熊谷健。郷喜久子。その他のスタッフも決定。一億の借金を背負って新たにスタートする陣営である。厳しい日々が予想される。しかし厳しければ厳しいほど仕事の充実は大きいと考えよう。必死にやりぬくのみである。企画室時代の自分しか知らぬ者は、『やれるのかい』とやや批判的である。腰をおちつけて、ジックリとテレビ映画作りに励みましょうというわけだ

異動前、金城は企画文芸室長を務めていました。これは明らかに降格人事です。こうは書いていても金城が落胆したのは間違いありません。プロデューサーの仕事も金城に向いていなかったこともあって金城は酒浸りの日々を送るようになり、遂には円谷プロを退職して沖縄へ帰っていきました。そして上原正三も金城が去ったのをみて自分も円谷プロを去る決心を固め、退職。他に企画文芸室に所属していた宮崎英明も同じ頃に退職しています。「怪奇大作戦」制作当時の企画文芸室のメンバーは全員、円谷プロを去ってしまったのです。

なおこの人事でプロデューサー室の室長となった有川貞昌も1969年に退職しています。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」にはこう書かれています。

「これは自分のやりたかった仕事ではない」と痛感した有川は、翌年、円谷プロを退職する。

一方、円谷皐は以後も円谷プロに残り続けます。興味深い話が白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」で紹介されていますので引用しましょう。

ほかに七〇年のトピックとしては、平日十八時のフジの再放送枠で、『ウルトラマン』がスタートしたことだろう。五月二六日のことである。六八年のTBS、六九年の日本テレビでのシリーズ再放送に続く出来事だ。実はこの時、『ウルトラマン』の放映権は、TBSが持っていた。言わば協定違反の再放送だったが、それをあえて仕掛けたのは、円谷プロ再建に奔走していた円谷皐だった。

田口 こういうことをやるのが皐さんなんだね。つまりTBSにペナルティを払ってでも、他局で放送した方が円谷プロは儲かるというビジネスライクな発想なんだよ。

円谷皐が著した『怪獣ウルトラマンが育てた円谷プロ商法』(世紀社出版刊)によれば、フジで再放送された『ウルトラマン』は、初回から二〇%の視聴率を上げ、ペナルティのマイナスを充分取り戻すことが出来たという。

「ビジネスライクな発想」というのが良くも悪くも円谷皐の特徴を表したものだと私は思います。だからこそ、リストラを断行できたのでしょう。

特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン

こうして迎えた1969年4月28日、一つの企画書が印刷されました。それが『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』です。もちろん、TBS向けのものです。

この頃、「怪奇大作戦」の後番組「妖術武芸帳」が不調で2クール放送の予定が短縮されて1クールで打ち切られていました。また1969年4月から日本テレビで「ウルトラマン」の再放送が行われていましたが、再放送にも関わらず、平均視聴率は18%を記録していました。放送枠は月曜日から土曜日までの18時から。しかも同時期にTBSでは木曜日18時から「ウルトラセブン」を再放送していました。この2つの要因がこの企画誕生につながったのでしょう。余談ですが、1970年にはフジテレビで「ウルトラマン」が月曜日から金曜日の18時から再放送されています。

さて『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』はその題名が示すとおり、「ウルトラマン」の続編です。少々長くなりますが、白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」の記述を要約します。

ウルトラマンが地球を去ってから30年後の地球が舞台です。怪獣は姿を消し、平和を保っており、科学特捜隊は解散していました。各国の核実験が原因で遂に怪獣達が現れました。科特隊が解散していたので自衛隊が怪獣に立ち向かいましたが、歯が立ちません。その時、一人の老人が「目を、目を狙うんだ!」と叫びました。その老人はかつて科特隊の隊長を務めたムラマツでした。怪獣は手強く、自衛隊は劣勢です。ムラマツが「こんな時、ウルトラマンがいてくれたら…」と天を仰いだ、その時、あのウルトラマンが大空から飛んで現れました。ウルトラマンは怪獣を倒すと颯爽と大空へ飛び去っていきました。この事件の後、怪獣専門のチームM・A・T(モンスター・アタック・チーム)が結成されました。ヤマムラ隊長をはじめ、バン、ムトウ、ウエノ、キシベ、サワダキヨコの6人がメンバーです。

そして第2の怪獣が現れ、M・A・Tのメンバー6人は怪獣に立ち向かっている時、ウルトラマンが登場し、6人の目の前で戦いが行なわれます。つまり、この時点ではウルトラマンはM・A・Tのメンバーが変身するわけではなかったのです。

そして第3の事件がアルプスの山中で行なわれます。M・A・Tは出動し、バンも活躍しますが、他のメンバーとは孤立し、危機に陥ります。その危機を救ったのが、謎の青年ハヤタでした。M・A・TのメンバーはハヤタにM・A・Tへの入隊を勧めますが、ハヤタはそれを固辞。アフリカのジャングルへ探検に行くというので、バンがマットアローで彼を送ります。その帰りにバンは謎の世界に引き込まれてしまいます。そこにいたのはウルトラマンでした。ウルトラマンは地球上ではこのままの姿でいるわけには行かないので、バンに身体を貸して欲しいと頼みます。バンは承諾。ウルトラマンはフラッシュビームをバンに渡すとバンの身体に乗り移りました。かくして、以後はバンがウルトラマンに変身して戦うことになったのです。

以上が『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』の内容です。この時点で、MATやマットアローの骨子が固まっていたことがわかります。ムラマツ、ハヤタ(?)が登場することからもわかる通り、あの「ウルトラマン」の続編となっており、登場するヒーローも「ウルトラマン」に登場したウルトラマンその人(?)でした。またムトウ隊員はイデ隊員の次男という設定ですが、苗字が違うのは養子に入ったからだそうです。

さて金城哲夫上原正三といった企画文芸室のメンバーがこの時点で円谷プロを去ったのは先述した通りです。では誰が企画を立てたのでしょうか。白石雅彦と荻野友大編著「帰ってきたウルトラマン大全」で満田かずほがこう証言しています。

69(昭和44)年の頃、まだ亡くなる前の英二社長から「いろんなところで『帰ってきた〜』ってあるからウルトラマンも帰ってこさせたらどうかね。」とひと言だけあったんです。『帰ってきた用心棒』とか『帰ってきたヨッパライ』とかね。じゃあやってみましょうかってことで考えたんですよ。

69年に『怪奇大作戦』が終わって番組が途絶えて、スタッフも解散しちゃったし金城哲夫も帰っちゃうし、なにしろ企画要員は僕と田口と熊谷と3人しかいなかったですから。それで我々としてはあのウルトラマンが『帰ってきた』という感覚で企画書だけ作ったんです。

この時点ではTBSが制作に乗り出すというところまでは行きませんでしたが、これが「帰ってきたウルトラマン」の企画の始まりです。

帰って来たウルトラマン

さて1970年。TBSで「ウルトラファイト」が放送されました。これは円谷一が「現場製作費ゼロの番組を作ろう」という言葉が元で企画されたもので、「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」から怪獣との戦闘シーンを抜き出してTBSに当時所属していた山田二郎アナウンサーの実況ナレーションをつける、というものでした。ただ実際に予定された130本の制作本数を賄いきれなかったので、後に新規に撮影された、ウルトラセブンと怪獣達が戦う話が追加されました。これは新聞では「出がらし商法」と揶揄されましたが、人気を呼び、延長されて全195話が本放送されました。

また橋本洋二は、円谷一と「怪奇大作戦」が終わってからすぐくらいからもう一回「ウルトラマン」をやろうという話をしていたと白石雅彦と荻野友大編著「帰ってきたウルトラマン大全」で証言しています。橋本が映画部に異動する希望を出したのは「ウルトラマン」に影響されたこともあったのでしょう。橋本洋二と円谷一の話し合い、そして「ウルトラファイト」のヒットなどが追い風となり、円谷プロは1970年9月5日に『帰って来たウルトラマン』という企画書を作ってTBSに提出しました。

さて中身はというと『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』とほぼ一緒でしたが、「製作にあたって」という項が付け加えられています。それは話の内容と予算削減の2つに大別されます。

まず話の内容としては、「①ドラマの設定をしっかりと」「②ストーリーの展開を面白く」「③人間ドラマとしての描写も充分に」「④子供たちに魅力のあるカッコイイヒーロー」の4点を「ガッチリと固め」と記述されています。白石雅彦も指摘していますが、この部分は橋本の意向も入っていると思われます。さらに次の記述があります。

実際のドラマの運びは、二週で一話(つまり30分前後篇)として30分ドラマ(特に特撮物)にありがちな物語の薄っペラさを解決していきます。

これは話の内容だけではなく、予算削減も狙っていることが窺えます。予算削減策はこれだけではありません。さらにこの記述があります。

その他、制作現場に於ては過去円谷プロの成長と共に学んで来た「造り方」の「合理化」を充分に発揮して以前よりスピーディにそしてローコストに勿論作品価値としてはそれ以上に………と努力致します。「造り方」の「合理化」の例としては円谷プロの機能ばかりでなく東宝撮影所の機能をも大いに活用するべく手筈をとっております。

かつて円谷プロが制作した「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」は監修した円谷英二のこだわりもあってリテイクを繰り返し、高質な内容の作品となっていましたが、と同時に、制作費高騰という弱点にもつながっていました。これがTBSが難色を示した最大の理由でした。その懸念を払拭するために、この「製作にあたって」という項が付け加えられたのです。制作費については「ずばり380万でOK!」と書かれています。これについては白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」で田口成光がこう証言しています。

田口 この頃の企画書は、僕が書いていましたが、三八〇万なんて具体的な数字は書き込めませんよ。これは(円谷)一さんでしょうね。この頃の企画書は、TBSが作った営業用があったらしいから、その企画書だったんじゃないかな?

田口も白石も推察する通り、380万という数字は円谷一が弾き出したものだと私も思います。

さてこの企画書には興味深いことに、MAT基地、隊員服、各種兵器、後にキングザウルス3世、タッコング、アーストロン、ザザーンとして登場する怪獣のデザインがスチールで撮影されています。かなり本格的に企画が始動していたことがわかります。怪獣のデザインはおそらく池谷仙克によるものだったのでしょう。

このダンピングが功を奏し、「帰ってきたウルトラマン」の制作が決まリました。この後、上原正三が招聘され、実際の放送内容となっていくのです。まさに、ウルトラマンが帰ってきたのです。

おわりに

この記事では円谷一、橋本洋二らの尽力で「帰ってきたウルトラマン」の制作が始まるまでの流れを簡単に書きました。この後、上原正三が加わって番組の内容が固まっていきますが、それについてはおいおい書いていきましょう。

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