(番外編)金城哲夫は太陽のように

はじめに

ここまで上原正三の足跡を書いてきましたが、ここで視点を変え、彼を脚本家に導いた金城哲夫について軽く取り上げます。

東京生まれの沖縄人(うちなんちゅ)

1938年7月5日、東京・芝の病院で金城哲夫は生まれました。彼の父忠榮は妻つる子とともに麻布獣医専門学校(今の麻布大学)に通っていたため、東京で生まれたのです。忠榮は2年の東京暮らしのあと、沖縄へ戻りました。なので私もそうですが、東京で暮らしていた頃の記憶は哲夫にはなかったと思います。

沖縄戦

こうして沖縄で暮らしていた哲夫でしたが、7歳になる時、沖縄戦が始まります。哲夫の母つる子は米軍の機銃掃射を浴び、左足を失ってしまいました。家族と別れ、哲夫とともに逃げていた最中の出来事でした。つる子は哲夫に自分を置いて逃げるように言い、哲夫は仕方なくそれに従いました。結局、哲夫はアメリカ軍に救われ、つる子も含めた家族全員と再会しました。この体験は後の哲夫に影響を与えます。

玉川学園への進学

戦後、沖縄はアメリカの信託統治領となりました。金城哲夫は沖縄で成長し、高校受験の時を迎えました。金城は那覇高校を受験しましたが、不合格に終わります。以前も書きましたが、上原正三那覇高校に前年入学しています。これが金城のもう一つの転機となりました。金城は母つる子の進めで東京都町田市にある玉川学園高等部へ進学することになったのです。こうして金城は高校時代以降を本土(ヤマト)で過ごすことになりました。このことも後の金城に影響を与えます。玉川学園在学時には沖縄訪問団を結成して学友とともに当時の沖縄を訪れたりしていました。またのびのびと育ったようです。

円谷プロ

さて金城哲夫は国語研究家の上原輝男と出会います。上原輝男は玉川学園に在籍していた円谷皐(英二の次男)を介して円谷英二を紹介され、「竹取物語」の脚本を依頼されました。この作業を金城も手伝ったのです。この経験を通して金城は脚本家を目指すことを決意し、上原輝男に英二を紹介して欲しいと頼みました。こうして金城は円谷プロに入ったのです。もっとも当時はまだ円谷特技研究所の時代でした。

円谷一との出会い

こうして金城を預かった円谷英二でしたが、彼は脚本家ではありません。そこで東宝の映画を手がけていた関沢新一に金城を預けることにしました。関沢は金城に天賦の才があるのがわかったと証言しています。金城の作風は明朗でポジティブな娯楽志向、そして、絵がみえる、あるいは、絵がわくト書きです。その2つの作風は関沢に出会って得たものでもありました。

次に金城の面倒をみたのが、円谷英二の長男でTBSで演出家として活躍していた円谷一です。一の方が7つ年上でしたが、すぐに金城と一は仲良くなりました。一は金城を自分の作品などで起用し、脚本を書かせたのです。自分が演出したドラマでは金城に意見を出したのは間違いないでしょう。円谷一は常々「ディレクターは脚本を書けなければ駄目だ」と言っていました。「ウルトラQ」や「ウルトラマン」で飯島敏宏、実相寺昭雄、樋口祐三が脚本も書いているのはそれも関係しています。ただ、一自身は脚本を書くタイプではありませんでした。そのため、金城は自分の代わりに脚本を書いてくれる脚本家として育てようとしたのです。一は金城が書いた脚本にもよく意見し、書き直しを命じることが多々あったようです。これもその思いがあったからなのでしょう。

円谷プロでの活躍

さて以前書いたとおり、円谷プロは「ウルトラQ」の制作を開始します。金城も脚本を書いていますが、制作第1話の「マンモスフラワー」は演出した梶田興治が意見を出し、何度も改稿しています。この当時は未だ修行の時代だったと言えるでしょう。この頃の金城の佳作といえば「五郎とゴロー」「宇宙からの贈りもの」「クモ男爵」「ガラダマ」「1/8計画」が挙げられると思いますが、いずれも円谷一と組んで書いた作品です。特に「五郎とゴロー」は「邪気のない人間」五郎が主役となった話です。金城はこういう作品を得意とし、円谷一もそれを得意にしていました。逆に金城は「邪気のある人間」の描写が苦手で梶田が演出した「甘い蜜の恐怖」では、それが顕著に現れてしまっています。事件を起こした木村の描写が粗いのです。なお、この頃、上原正三が上京したのは以前書きました。

ウルトラQ」は好評のうちに終わり、「ウルトラマン」が始まりました。この作品で金城は一本立ちしたと言えるでしょう。樋口祐三が監督した「恐怖のルート87」「まぼろしの雪山」、そして鈴木俊継が演出した「禁じられた言葉」、そして満田かずほが絵演出して「ウルトラマン」最高視聴率を記録した「小さな英雄」。金城は円谷一以外の監督とも組んで傑作を書いています。「禁じられた言葉」では、メフィラス星人に、お前は宇宙人なのか地球人なのか、と問われたハヤタに「両方さ」というセリフがありますが、それは金城哲夫自身の立場とダブります。金城は沖縄と本土との架け橋になりたかったのです。

沖縄への帰郷と死

しかし、金城が活躍した期間は長くは続きませんでした。「ウルトラセブン」の途中から制作が始まった「マイティジャック」が低視聴率に終わったからです。また「ウルトラセブン」の後番組「怪奇大作戦」でも金城は苦悩の日々を送っていました。金城は3本しか書いていません。これについて、上原正三は白石雅彦著「「怪奇大作戦」の挑戦」でこう証言しています。

上原 「人喰い蛾」が第一話にならなかったというのは、金城のプライドをひどく傷つけたと思うよ。「マイティジャック」の失敗のしわ寄せも来ている時期だったしね。あの頃は苦悩の日々でしたよ。だから「怪奇大作戦」の金城の作品は、みんな苦渋に満ちているよね。それからは企画室長の立場があるから、一応脚本は読むんだけど、それだけで何も言わないんだよね。あれは辛かったよね。だって絶対のエースがもう投げられなくなっていたんだから。

怪奇大作戦」終了後、制作が途絶えた円谷プロは円谷皐主導で人員整理を始めました。金城哲夫は企画文芸室の室長の役を解かれ、プロデューサー室に異動となりました。この頃から金城は酒浸りの日々を送るようになりました。さて田口成光は無給なのに円谷プロに出入りして金城と付き合っていましたが、1969年初頭、金城の頼みで信州にある彼の実家へ金城を連れて行きました。途中、金城は諏訪湖のほとりの骨董屋でラッパを買っています。そして恩師の上原輝男やTBSの拵井プロデューサーなどへ電話をかけていました。「怪奇大作戦」の橋本洋二プロデューサーも電話を受けています。橋本は金城が帰郷の決意を固めていたのを知ると懸命に引き留めたと言います。金城と"四つに組んで勝負をしていない"という思いが残っていたからです。ですが、金城の決意は変わりませんでした。

こうして金城は1969年3月1日、船に乗って沖縄へ帰りました。離岸する船上、何を思ったのか、金城はラッパを吹き出したと言います。その音色は見送りに行った人達の記憶にずっと残ったのでした。

帰郷後、金城は沖縄のラジオ番組のパーソナリティーや沖縄芝居の脚本を書いていました。しかし、金城は沖縄芝居では言葉の壁にぶち当たることになります。高校時代からずっと本土で暮らしたため、ウチナーグチが想像以上に不得手になっており、脚本を一度標準語に書いた後、ウチナーグチに翻訳されるという過程を経て芝居にされていました。翻訳される過程で微妙なニュアンスが変わることもあり得ます。このことは金城を徐々に苦しめました。そういえば「ウルトラQ」で「SOS富士山」を金城とともに制作した件について飯島敏宏は白石雅彦著「飯島敏宏 「ウルトラマン」から「金曜日の妻たちへ」」でこう証言しています。

金ちゃん、台詞回しにちょっとおかしいところがある。そういう部分というのは全部直しました。それは平気で言い合って、「金ちゃん、こういう言い回しはあまりしないよ」とかね。彼は高校のときに沖縄からこっちに来たでしょう。だから言葉のハンディがあった。東京弁と書こうとすると東京弁にならない。今度は故郷に帰って沖縄芝居を書き始めると、純粋なウチナーグチ(沖縄言葉)じゃない。だからその両方で悩んだみたいだね。

 また高校時代から本土で過ごした時は上原正三ほどの差別は受けていなかったようで、そのため沖縄が置かれていた立場を上原ほど理解できていたとも言い難かったようです。金城哲夫は本土と沖縄との架け橋になりたいと思っていましたが、残念ながら壁にぶち当たり、晩年はまた酒浸りの日々を送るようになりました。そして1976年2月23日、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうとして足を滑らせ、転落。直ちに病院に搬送されましたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去したのでした。享年37歳でした。

おわりに

以前も書きましたが、金城哲夫は私の父と同年です。全盛期はあまりにも短かったのですが、第一期ウルトラシリーズの関係者は誰もがその才能を褒め称えていました。上原正三も同様で「帰ってきたウルトラマン」では「ウルトラマン」との亜流にならないようにするため腐心したと言います。帰郷せずに橋本洋二と4つに組んでいればどうなっていたのかなあと、ふと思いました。

最後に金城哲夫の実家がある南風原町の公式サイトの載っている金城哲夫の資料館のリンクを載せておきます。

www.haebaru-kankou.jp

adventar.org