円谷一

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」制作当時、円谷プロダクションの社長を務めていた円谷一を取り上げます。

略歴

円谷一は1931(昭和6)年生まれ。円谷英二と円谷マサノの間に生まれました。彼の弟が円谷皐(1935(昭和10)年生まれ)と円谷粲(1944(昭和19)年生まれ)です。彼の足跡は白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」が詳しいです。子供の頃はバイオリンを弾くなど音楽好きで本当は音楽学校に通いたかったようですが、音楽は趣味でやれと言われた上に学習院大学理学部を受けたら受かってしまったため、そのまま通っていたそうです。なので円谷英二は大学を出たら核実験でもやるのかと思っていたと『キネマ旬報』1963年2月15日号に載っていた対談(英二、一、皐)で語っています。もともと映像には興味がなかったと言うのは興味深い話ですが、芸術には興味があったと言うのはわかります。一は大学ではホッケー部に所属し、室内楽団でセカンドバイオリンを担当していたそうです。なお円谷皐は玉川学園の高等部時代は盛んに演劇をやっていたそうです。

ですが、円谷英二が「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」を制作した時には東宝の撮影所で有川貞昌らと共に円谷英二の仕事を手伝いました。これが映像の仕事を行なったきっかけです。ですが、東宝には入らず、TBSに入社しています。余談ですが、円谷皐はフジテレビ、円谷粲は円谷プロダクションに入っています。

さてTBSではディレクターになり、「煙の王様」と言うドラマを全編フィルム撮影で制作し、芸術祭賞を受賞しています。その後、映画部に移り、青島幸男主演の「いまに見ておれ」などのドラマを制作しています。その頃、後にウルトラシリーズでコンビを組む金城哲夫円谷プロダクションに入ります。

ウルトラシリーズへの参加

その頃、円谷プロはテレビ制作を始めようとしていました。フジテレビと進めていた「WOO」とTBSと進めていた「アンバランス」です。そして「WOO」の制作が決まりかけました。そこで円谷英二は当時、世界に2台しかなかったオックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」を注文しました。ところが、「WOO」の制作は契約締結の直前になって話が流れてしまったのです。さあ困りました。この機械は当時4000万円もするような高額な機械です。キャンセルしようとしたところ、既に機械は船に載せられて日本へ向かっていました。金策に窮した英二は一と皐に相談し、結局、一の口利きでTBSの大森編成部長が決断し、オックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」はTBSが代わりに購入することになりました。そんな高額な機械を購入したわけですから、死蔵しておくわけにも行きません。こうしてTBSは円谷プロに「アンバランス」制作を発注しました。

こうして円谷プロで番組制作が始まったのですが、円谷一は興味を示しませんでした。これはあくまでも私見ですが、父英二と同じ特撮作品を作って比べられるのが嫌だったのでしょう。大学まで映像関係に興味を持っていなかったこともそれが理由なのだと思います。ですが、制作の熊谷健が持ってきた「あけてくれ!」のシノプシスを観て一の意見は変わり、「俺が撮る」と言い切りました。これは怪獣が全く出てこない異次元SFものでした。熊谷は白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」で次の証言を残しています。

一さんの場合、どこか人情家だし、わりとヒューマンなドラマが好きなんですね。本質的に、特撮もの、サスペンスものの人ではないんです。でもそこはお父さんの会社ですし、心配だからいろいろ面倒を見ながら作品を撮っていたということなのでしょう。

ウルトラQ』の頃の一さんは『煙の王様』を撮ったあとですから、TBSでは看板ディレクターですよね。だから最初の頃は、「俺、撮るのヤダよ」とすごく嫌がっていました。それで僕が小山内美江子の「あけてくれ!」のプロットを持ってきたら、「あぁこれだったらいいなぁ」と言ったんです。一さんが「あけてくれ!」のプロット読んだのは、まだシリーズがクランクインする前だったんじゃないかな? そのとき一さんはTBSで忙しい人だし、撮るだろうとは思っていなかったんです。考えてみれば、あれだと怪獣が出ないでしょう。一さんとしては、どこかに英二さんの『ゴジラ』があって、自分は怪獣ものを作るのは嫌だ、という気持ちがあったような気がします。

こうして円谷一円谷プロのTBS制作作品に参加することになったのです。皮肉なことに円谷一が参加した「アンバランス」はその後、怪獣路線の「ウルトラQ」に転換しましたが、「ウルトラQ」はヒットし、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」と番組は続くことになります。

ウルトラQ

こうして円谷一は「アンバランス」の制作に参加しましたが、番組はTBSのプロデューサー拵井巍の意見で怪獣路線に転換することになりました。と言うわけで番組名は「ウルトラQ」に変更されました。ですが一は次々と番組で新基軸を打ち出していきます。まず「宇宙からの贈りもの」(脚本:金城哲夫特技監督:川上景司)は番組初の宇宙怪獣もの。「五郎とゴロー」(脚本:金城哲夫特技監督有川貞昌)は普通の動物が巨大化するという話。「1/8計画」(脚本:金城哲夫特技監督有川貞昌)は怪獣を登場させるのではなく、逆に人間を縮小させると言うのが大筋。「ゴメスを倒せ!」(脚本:千束北男、特技監督:小泉一)は複数の怪獣ゴメスとリトラが戦う話。「クモ男爵」(脚本:金城哲夫特技監督:小泉一)は特撮セットが少なく、登場する怪獣は操演怪獣の大蜘蛛タランチュラが暗躍するホラー。最後の制作となった「ガラダマ」(脚本:金城哲夫特技監督:的場徹)は番組初のロボット怪獣ものです。白石雅彦は円谷一は日本初のことをするのが好きだったと評していますが、その意見は正しいでしょう。それから、「あけてくれ!」と「ゴメスを倒せ!」以外は全て金城哲夫が脚本を書いています。「五郎とゴロー」は口の利けない五郎と巨大化してしまったゴローとの交流を描いた話で、怪獣ものではあるのですが、もともと一が好きだった「どこか人情家だし、わりとヒューマンなドラマ」です。最後、ゴローは眠り薬入りのミルクを飲んで眠ってしまいますが、五郎は自分があげたミルクに眠り薬が仕込まれていたことなど知らされておらず、ゴローが眠りこけるのを見て、その理由と仕込まれた事情を察します。ゴローは眠っている間にイーリヤン島へ運ばれる手筈になっていました。五郎は心の中で叫び声を挙げます。この叫び、金城哲夫が書いた脚本では「ゴロー」と叫ぶことになっていますが、完成作ではただ叫び声を挙げるだけです。もちろんこの改変は円谷一によるもので、一は金城哲夫の意図を汲んだ上で改変したのです。

また制作の仕事だけではなく人も呼んでいます。TBSの飯島敏宏と実相寺昭雄に脚本を書かせています。実相寺の書いた脚本は映像化されませんでしたが、飯島敏宏の書いた脚本は上記の通り、映像化されました。「ゴメスを倒せ!」を書いた千束北男は飯島のペンネームなのです。飯島は後に「ウルトラQ」で4本監督を務めています。一はただのディレクターではなく、プロデューサーとしての才能も発揮して行くことになるのです。

また拵井巍は次の証言を白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」で次の証言を残しています。

僕は放送の第1回は「宇宙からの贈りもの」を持ってきたんです。

(中略)

そしたら円谷君がどうもそれを聞きつけたらしくてね、俺のところに来たんですよ。「栫井さんが作ったリストを見ると『宇宙からの贈りもの』が第1回放送、1月2日からの放送になっていて、あとは色々並べてある。後については何も言わないけれども、一番最初の放送を『ゴメスを倒せ!』にしてもらえないか」と。「どうして?」と訊いたらね。「飯島さんに他の名前で書いてもらって自分で演出したんだ」と言うんだよ。TBSでは原則的に、ディレクターが脚本を書くことは認めていなかったんだけど、けっこうペンネームで書いていたんだよね。でも円谷君が「飯島さんには『ウルトラQ』路線に大変貢献してもらった。頼みます」と言うから、そうしようと。

なお円谷一はあれほど制作にこだわった「あけてくれ!」を本放送から外すと聞かされた時は渋々ながら同意したそうです。

ウルトラマン

さて「ウルトラQ」は好評で「ウルトラマン」が制作されることになりました。円谷一ウルトラマンでは次の8本を演出しています。

第1話と最終話を金城哲夫と共に担当しているのがミソで、当時、円谷一金城哲夫は名コンビと言われていました。一は金城にいろいろ注文を出したそうです。また第8話と第38話が制作された経緯についてはこちらをご覧ください。

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さて他に特筆すべきは第12話と第13話です。クレジットでは特技監督は高野宏一となっていたのですが、実際は円谷一特技監督も務めています。次の制作話は「ウルトラマン」初演出の実相寺昭雄担当ということもあり、高野宏一の時間を空ける必要があったことに加えて、別の思惑もあったようです。白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」での熊谷健の証言です。

一さんがドドンゴペスター特技監督をやったのは、ある意味、英二さんがやらなかった特撮、同じ特撮ものをやるなら、親父さんを越えてやろう、という気持ちがあったのではないでしょうか? ともに人間が2人入るタイプの着ぐるみですしね。

この証言もあってか、白石雅彦は別の著書「ウルトラマンの飛翔」で、要するに特技監督をやりたかったのではないか、と大胆な推測をしています。本編と特撮を兼務するというのは後に事例が出てきますが、ウルトラシリーズでは初です。

円谷プロダクション2代目社長就任

思わず話が長くなりましたが、円谷一はTBS社員としてドラマ制作に力を入れていましたが、「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」と続いていった頃、転機が訪れます。それは父円谷英二の体調悪化です。それが始まったのは1968年頃。その様子を見て1969年11月30日、一はTBSを依願退職しました。1969年12月から円谷英二静岡県で療養生活に入りましたが、1970年1月25日、狭心症心臓喘息のため亡くなったのでした。享年68。そして円谷一円谷プロダクションの社長に就任したのです。

おわりに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」当時の円谷プロダクション社長でプロデューサーを務めた円谷一について書きました。長さの関係で「ウルトラセブン」の手前辺りで終わってしまいましたが、この続きはTBS側のプロデューサー橋本洋二のところで触れることにします。

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