ウルトラマン・快獣ブースカ -金城哲夫の助手として- -上原正三 Advent Calendar 2020 3日目-

はじめに

これまで上原正三が「ウルトラQ」で全国デビューを果たすまでの足跡を書いてきました。今回は円谷プロに入った上原正三金城哲夫の助手として活躍した「ウルトラマン」と「快獣ブースカ」について取り上げます。

ウルトラマン

未映像化作品

ウルトラマン」は「ウルトラQ」のヒットを受けて企画された番組で「ウルトラQ」の放送後、後番組としてTBS系列で放送されました。制作に入るに当たって何本か脚本が執筆されました。未映像化に終わりましたが、この時期、上原は「宇宙基地救助命令」と「怪獣用心棒」の2本を書いています。未映像化に終わった理由は定かではありませんが、前者は宇宙ステーションを金星大怪鳥ガースが襲うという話のため予算の問題(宇宙ステーションのセットとミニチュア、宇宙船のセットとミニチュア、金星大怪鳥ガースのとび人形、着ぐるみに合わせた宇宙ステーションのミニセットが少なくとも必要)が考えられますし、後者は怪獣ゴルダーを操る秘密結社サン・ダストの野望と壊滅も描くだけの時間が30分では短すぎるという問題が考えられます。特に予算の問題は重要です。特撮作品は製作費がかかりますが、「ウルトラQ」制作時、円谷英二は映像の出来に満足が行かない時は何度も撮り直し、作品の品質向上を優先させたため、必然的に制作費が増加して赤字となっていました。さらに「ウルトラQ」は白黒作品かつ全作品完成後に放送が開始されましたが、「ウルトラマン」ではカラー作品になり、制作しながら放送を継続していくというやり方に変わりました。そのため、予算と制作日数を抑えることが制作時の重要な課題となったのです。

怪獣無法地帯

さて上原正三が「ウルトラマン」で書いた脚本で初めて映像化されたのが第8話「怪獣無法地帯」(脚本:金城哲夫上原正三、監督:円谷一特技監督:高野宏一)です。これは円谷一が「怪獣をたくさん出そう」と発想して製作されたものです。怪獣はレッドキング、チャンドラー、マグラー、ピグモン、そしてスフランの5種類が登場しますが、新規に着ぐるみとして造形されたのはレッドキングのみ。チャンドラーは「ウルトラQ」のペギラの改造、マグラーは元は東宝の映画(当然、特技監督円谷英二)「フランケンシュタイン対地底怪獣」に登場したバラゴンのぬいぐるみで、初めは「ウルトラQ」のパゴスに改造され、その後、「ウルトラマン」のネロンガに改造された後、マグラーになりました。実はこの後、ガボラに改造された後、東宝に返され、映画「怪獣総進撃」でバラゴンに戻されて登場するという変遷を辿ります。ピグモンは「ウルトラQ」のガラモンの改造で、演者が変更になったため、首回りが改造されました。そしてスフランは植物のツルなのでさほど制作費はかからなかったのでしょう。なおスフランは後に「怪獣殿下」の前編で再登場していますが、この時も円谷一金城哲夫が制作に関わっています(ただし脚本は若槻文三金城哲夫の共作)。こういう構成になったのは円谷一の発想が元です。おそらく多々良島という孤島が舞台になったのも、ゲストが実質的に測候所の生き残り松井所員(演者は松本朝夫)のみなのも、予算の関係でしょう。上原によれば第一稿を上原が書き、第二稿は金城哲夫が手を加えたそうです。ただし変更点はさほどありません。ですが、白石雅彦著「ウルトラマンの飛翔」によれば、当時金城哲夫上原正三が交代で書いた「文芸部・日誌」には、その時の記録が載っているそうです。日誌によれば、「怪獣無法地帯」の第1稿は4月7日に書き始められ、締め切りは4月9日。そして金城哲夫は1966年4月12日から18日まで旅館はなぶさに籠り、「怪獣無法地帯」と「宇宙から来た暴れん坊」の直しを行なったり企画書などを執筆していました。「怪獣無法地帯」の直しには上原も加わったようです。「怪獣無法地帯」の準備稿が印刷されたのは4月19日。その後、さらに上原が手を入れた改訂稿は5月2日に印刷されています。なお放送日は9月4日でした。

余談ですが、ウルトラマンウルトラQは予算削減のためか既存の着ぐるみを改造して使いまわす話が多いです。この時に新規造形されたレッドキングは「怪彗星ツイフォン」で再登場しますが、よく見ると頭部、特に目のあたりが「怪獣無法地帯」とは違っています。それはレッドキングが一度、頭部をすげ替えられたりして「悪魔はふたたび」に登場するアボラスに改造された後、再登場したからです。

宇宙船救助命令

次に上原が「ウルトラマン」で書いたのは第38話「宇宙船救助命令」です。ここまで執筆が先になったのは後述するように「快獣ブースカ」が制作されていたからです。この話も監督は円谷一でした。ただし特殊技術は円谷英二東宝での部下にあたる有川貞昌が担当しています。もっとも、上原が脚本を書く直前、金城哲夫によるハコ書き(脚本の設計書にあたるものでプロットよりは精密に、シーンナンバー通りに書き、場合によってはセリフも書き込まれる)が存在し、これを引き継いで上原が完成させたようです。その筋立ては未映像化に終わった「宇宙基地救助命令」に似たもので、Q星に生存する宇宙怪獣キーラの影響で危機に陥った宇宙ステーションV2を科学特捜隊が救うというのが大まかな筋立てです。登場する怪獣はキーラの他にもう一体、サイゴが登場します。「ウルトラマンの飛翔」の中で著者の白石雅彦は「次企画へのプロモーションのように見えて仕方がなかった」と書いており、実際に上原に質問しています。なぜそう思ったのかといえば、「宇宙基地救助命令」でも述べた通り、明らかに予算がかかるからです。で上原の答えは

上原 それは確かにあったよ。一さんとしては、円谷プロでも宇宙ものや、メカニックものをできるということを証明したかったんだね。

この上原の証言でも明らかなように、やはり円谷一主導で「宇宙船救助命令」は制作されたのです。当時、イギリスでは「サンダーバード」が制作されていました。日本ではNHKが1966年4月10日から放送を開始しています。「宇宙船救助命令」は1966年4月2日放送でした。また「ウルトラマン」の後継作にあたる「ウルトラセブン」の企画はすでに始まっていました。当然、円谷一はそれを意識していたはずです。さて円谷一の意図はもう一つありました。それは第二の「怪獣無法地帯」を作ることです。ですが、白石も述べていますが、それは成功したとは言い難いです。というのはやはり予算がかかるため、サイゴ の造形に一度待ったがかかったりし、結果、サイゴの造形はキーラと比べると粗い感じになっています。なおQ星での様子は浅間山のそばにある鬼押し出しで撮影されています。明らかに昼間に撮影されていますが、フィルターをかけて宇宙の星のような感じを表現していました。

快獣ブースカ

さて話を少し昔に戻しましょう。「ウルトラマン」の制作が始まってしばらく経った頃、円谷プロが制作した特撮作品としては3作目となる「快獣ブースカ」の制作が始まりました。屯田大作少年が飼っているイグアナが大作少年の発明した餌によって等身大に巨大化できるようになり誕生したのがブースカで、大作少年やブースカが繰り広げる珍騒動を描いたものです。日本テレビで放送され、予告ナレーションを担当したのは当時日本テレビのアナウンサーだった福留功男でした。なお日本テレビ側のプロデューサーは後に「太陽にほえろ!」などをプロデュースする岡田晋吉でした。岡田は自著でさほど人気はなかったようなことを書いていますが、実際はそうではなく、半年の放送予定だったのが延長され、第26話からブースカの弟快獣チャメゴンが登場し、最終的には47話が放送されました。

ウルトラマン」で金城哲夫が脚本のなおしを行なっていたことに少し触れましたが、上原は「快獣ブースカ」で脚本のなおしや発注を担当していました。「快獣ブースカ」でデビューした市川森一は、講談社ウルトラマン大全集II」に載っている、上原と橋本洋二を交えた対談で当時を振り返り、

ブースカ」は上さん、「ウルトラマン」は金城さんと完全に分業みたくやってましたね。

と述べています。脚本のなおしだけではなく上原は「快獣ブースカ」脚本も担当しています。クレジットされているのは共作を含めると12本。そのうち上原単独の名義になっているのは4本です。残りの8本は純粋に共作しただけではなく、他の人が書いたのをなおしているうちに自分の担当分が増えたためにクレジットされたものなのかもしれません。

さて先ほど「快獣ブースカ」で市川森一がデビューしたと書きましたが、実は長坂秀佳も「快獣ブースカ」の制作開始という話を聞きつけて円谷プロに参加したいと言ってきていました。ですが、当時、長坂秀佳東宝の社員でしたが、市川森一はフリーの脚本家でした。その結果、収入のある長坂秀佳ではなく、市川森一が第4話「ブースカ月へ行く」でデビューを飾ることになりました。後に長坂は市川をほぼ一方的にライバル視しますが、その遠因にはこの騒動があったのでした。

市川森一が「快獣ブースカ」で書いた脚本は共作も含めて16本。実に3分の1近くの脚本を書いています。単独名義のものは11本。この当時から「夢見る力」を強調した作風は全開でデビュー作の「ブースカ月へ行く」はかぐや姫の話を知ったブースカが月へ行ってかぐや姫に会いたいと夢見るようになり、見かねた大作達がブースカを「月」へ行かせた果てにブースカが本当にかぐや姫(実際は自分が夢見たかぐや姫とそっくりな人)と会ってしまうという話です。上述の対談で上原は市川がブースカで書いたプロットを評して

彼はさっきプロットを落とされたと言ってましたけど、どれも歯切れが良かったんですよ。市川森一のプロットにはみずみずしい感性が横溢していましたね。

と多少ヨイショも込めて述べています。

 

なお上原と市川の共作は3本あります。最終回「さようならブースカ」もそうです。最終回を発想したのは市川だったようで、大作とブースカ&チャメゴンとの別れを描いています。ブースカとチャメゴンは地球を救うために宇宙へと旅立ちますが、そのためのロケットの開発の段階で、相対性理論により、ブースカとチャメゴンにとっては20分程度の行程で進む宇宙探検旅行が大作達にとっては20年もの歳月を経るものであることが明らかになってしまいます。大作はブースカとチャメゴンにはそのことを伏せたまま、 彼らを宇宙へ送り出します。大作はブースカが帰ってくるまで地球を立派にすると誓って別れるのです。このような話にした理由として市川森一は、夢はいつかは醒めるものなので敢えてハッピーエンドにはしなかった、というようなことを挙げています。市川はさらに踏み込み、このような夢を見させた責任は書き手である自分達にあるというようなことまでのべています。私は「ウルトラマンA」でのゴルゴダ星の話やジャンボキングの話でウルトラシリーズの否定に繋がるような話を書いた理由にも繋がるのではないかなあ、と個人的には思います。

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