ウルトラマンが帰ってきた - 帰ってきたウルトラマン Advent Calendar 2021 -

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」の企画が始まり、制作が始まるまでの経緯の概要を取り上げます。

金城哲夫上原正三円谷プロを去る

怪奇大作戦」終了後、円谷プロは番組制作が途絶え、冬の時代を迎えていました。当然、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」そして「ウルトラセブン」制作時に累積した赤字を解消する目処は立ちません。そのため、円谷皐は新たに円谷プロに参加した有川貞昌と共に人員整理と負債問題の解決に着手しました。有川は円谷英二の弟子で円谷英二に請われ、1968年12月6日の総会で役員になっていました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」で白石が生前有川から聞いた話として

その時有川は「これで昔のように、オヤジと一緒に楽しく仕事が出来る」と思ったそうである。

と書いています。閑話休題。この人員整理で円谷プロの社員は150人から40人まで削減され、それまでなかった営業部が新設されました。金城哲夫上原正三が所属していた企画文芸室は解体され、企画文芸室所属のメンバーはプロデューサー室へ異動となりました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」では、企画課ノートに書かれた金城哲夫の記述が紹介されています。

12月12日。(木)雨。プロデューサー室誕生。室長・有川貞昌。プロデューサー。守田康司。野口光一。金城哲夫。宮崎英明。上原正三。新野悟。熊谷健。郷喜久子。その他のスタッフも決定。一億の借金を背負って新たにスタートする陣営である。厳しい日々が予想される。しかし厳しければ厳しいほど仕事の充実は大きいと考えよう。必死にやりぬくのみである。企画室時代の自分しか知らぬ者は、『やれるのかい』とやや批判的である。腰をおちつけて、ジックリとテレビ映画作りに励みましょうというわけだ

異動前、金城は企画文芸室長を務めていました。これは明らかに降格人事です。こうは書いていても金城が落胆したのは間違いありません。プロデューサーの仕事も金城に向いていなかったこともあって金城は酒浸りの日々を送るようになり、遂には円谷プロを退職して沖縄へ帰っていきました。そして上原正三も金城が去ったのをみて自分も円谷プロを去る決心を固め、退職。他に企画文芸室に所属していた宮崎英明も同じ頃に退職しています。「怪奇大作戦」制作当時の企画文芸室のメンバーは全員、円谷プロを去ってしまったのです。

なおこの人事でプロデューサー室の室長となった有川貞昌も1969年に退職しています。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」にはこう書かれています。

「これは自分のやりたかった仕事ではない」と痛感した有川は、翌年、円谷プロを退職する。

一方、円谷皐は以後も円谷プロに残り続けます。興味深い話が白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」で紹介されていますので引用しましょう。

ほかに七〇年のトピックとしては、平日十八時のフジの再放送枠で、『ウルトラマン』がスタートしたことだろう。五月二六日のことである。六八年のTBS、六九年の日本テレビでのシリーズ再放送に続く出来事だ。実はこの時、『ウルトラマン』の放映権は、TBSが持っていた。言わば協定違反の再放送だったが、それをあえて仕掛けたのは、円谷プロ再建に奔走していた円谷皐だった。

田口 こういうことをやるのが皐さんなんだね。つまりTBSにペナルティを払ってでも、他局で放送した方が円谷プロは儲かるというビジネスライクな発想なんだよ。

円谷皐が著した『怪獣ウルトラマンが育てた円谷プロ商法』(世紀社出版刊)によれば、フジで再放送された『ウルトラマン』は、初回から二〇%の視聴率を上げ、ペナルティのマイナスを充分取り戻すことが出来たという。

「ビジネスライクな発想」というのが良くも悪くも円谷皐の特徴を表したものだと私は思います。だからこそ、リストラを断行できたのでしょう。

特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン

こうして迎えた1969年4月28日、一つの企画書が印刷されました。それが『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』です。もちろん、TBS向けのものです。

この頃、「怪奇大作戦」の後番組「妖術武芸帳」が不調で2クール放送の予定が短縮されて1クールで打ち切られていました。また1969年4月から日本テレビで「ウルトラマン」の再放送が行われていましたが、再放送にも関わらず、平均視聴率は18%を記録していました。放送枠は月曜日から土曜日までの18時から。しかも同時期にTBSでは木曜日18時から「ウルトラセブン」を再放送していました。この2つの要因がこの企画誕生につながったのでしょう。余談ですが、1970年にはフジテレビで「ウルトラマン」が月曜日から金曜日の18時から再放送されています。

さて『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』はその題名が示すとおり、「ウルトラマン」の続編です。少々長くなりますが、白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」の記述を要約します。

ウルトラマンが地球を去ってから30年後の地球が舞台です。怪獣は姿を消し、平和を保っており、科学特捜隊は解散していました。各国の核実験が原因で遂に怪獣達が現れました。科特隊が解散していたので自衛隊が怪獣に立ち向かいましたが、歯が立ちません。その時、一人の老人が「目を、目を狙うんだ!」と叫びました。その老人はかつて科特隊の隊長を務めたムラマツでした。怪獣は手強く、自衛隊は劣勢です。ムラマツが「こんな時、ウルトラマンがいてくれたら…」と天を仰いだ、その時、あのウルトラマンが大空から飛んで現れました。ウルトラマンは怪獣を倒すと颯爽と大空へ飛び去っていきました。この事件の後、怪獣専門のチームM・A・T(モンスター・アタック・チーム)が結成されました。ヤマムラ隊長をはじめ、バン、ムトウ、ウエノ、キシベ、サワダキヨコの6人がメンバーです。

そして第2の怪獣が現れ、M・A・Tのメンバー6人は怪獣に立ち向かっている時、ウルトラマンが登場し、6人の目の前で戦いが行なわれます。つまり、この時点ではウルトラマンはM・A・Tのメンバーが変身するわけではなかったのです。

そして第3の事件がアルプスの山中で行なわれます。M・A・Tは出動し、バンも活躍しますが、他のメンバーとは孤立し、危機に陥ります。その危機を救ったのが、謎の青年ハヤタでした。M・A・TのメンバーはハヤタにM・A・Tへの入隊を勧めますが、ハヤタはそれを固辞。アフリカのジャングルへ探検に行くというので、バンがマットアローで彼を送ります。その帰りにバンは謎の世界に引き込まれてしまいます。そこにいたのはウルトラマンでした。ウルトラマンは地球上ではこのままの姿でいるわけには行かないので、バンに身体を貸して欲しいと頼みます。バンは承諾。ウルトラマンはフラッシュビームをバンに渡すとバンの身体に乗り移りました。かくして、以後はバンがウルトラマンに変身して戦うことになったのです。

以上が『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』の内容です。この時点で、MATやマットアローの骨子が固まっていたことがわかります。ムラマツ、ハヤタ(?)が登場することからもわかる通り、あの「ウルトラマン」の続編となっており、登場するヒーローも「ウルトラマン」に登場したウルトラマンその人(?)でした。またムトウ隊員はイデ隊員の次男という設定ですが、苗字が違うのは養子に入ったからだそうです。

さて金城哲夫上原正三といった企画文芸室のメンバーがこの時点で円谷プロを去ったのは先述した通りです。では誰が企画を立てたのでしょうか。白石雅彦と荻野友大編著「帰ってきたウルトラマン大全」で満田かずほがこう証言しています。

69(昭和44)年の頃、まだ亡くなる前の英二社長から「いろんなところで『帰ってきた〜』ってあるからウルトラマンも帰ってこさせたらどうかね。」とひと言だけあったんです。『帰ってきた用心棒』とか『帰ってきたヨッパライ』とかね。じゃあやってみましょうかってことで考えたんですよ。

69年に『怪奇大作戦』が終わって番組が途絶えて、スタッフも解散しちゃったし金城哲夫も帰っちゃうし、なにしろ企画要員は僕と田口と熊谷と3人しかいなかったですから。それで我々としてはあのウルトラマンが『帰ってきた』という感覚で企画書だけ作ったんです。

この時点ではTBSが制作に乗り出すというところまでは行きませんでしたが、これが「帰ってきたウルトラマン」の企画の始まりです。

帰って来たウルトラマン

さて1970年。TBSで「ウルトラファイト」が放送されました。これは円谷一が「現場製作費ゼロの番組を作ろう」という言葉が元で企画されたもので、「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」から怪獣との戦闘シーンを抜き出してTBSに当時所属していた山田二郎アナウンサーの実況ナレーションをつける、というものでした。ただ実際に予定された130本の制作本数を賄いきれなかったので、後に新規に撮影された、ウルトラセブンと怪獣達が戦う話が追加されました。これは新聞では「出がらし商法」と揶揄されましたが、人気を呼び、延長されて全195話が本放送されました。

また橋本洋二は、円谷一と「怪奇大作戦」が終わってからすぐくらいからもう一回「ウルトラマン」をやろうという話をしていたと白石雅彦と荻野友大編著「帰ってきたウルトラマン大全」で証言しています。橋本が映画部に異動する希望を出したのは「ウルトラマン」に影響されたこともあったのでしょう。橋本洋二と円谷一の話し合い、そして「ウルトラファイト」のヒットなどが追い風となり、円谷プロは1970年9月5日に『帰って来たウルトラマン』という企画書を作ってTBSに提出しました。

さて中身はというと『特撮怪獣シリーズ 続ウルトラマン』とほぼ一緒でしたが、「製作にあたって」という項が付け加えられています。それは話の内容と予算削減の2つに大別されます。

まず話の内容としては、「①ドラマの設定をしっかりと」「②ストーリーの展開を面白く」「③人間ドラマとしての描写も充分に」「④子供たちに魅力のあるカッコイイヒーロー」の4点を「ガッチリと固め」と記述されています。白石雅彦も指摘していますが、この部分は橋本の意向も入っていると思われます。さらに次の記述があります。

実際のドラマの運びは、二週で一話(つまり30分前後篇)として30分ドラマ(特に特撮物)にありがちな物語の薄っペラさを解決していきます。

これは話の内容だけではなく、予算削減も狙っていることが窺えます。予算削減策はこれだけではありません。さらにこの記述があります。

その他、制作現場に於ては過去円谷プロの成長と共に学んで来た「造り方」の「合理化」を充分に発揮して以前よりスピーディにそしてローコストに勿論作品価値としてはそれ以上に………と努力致します。「造り方」の「合理化」の例としては円谷プロの機能ばかりでなく東宝撮影所の機能をも大いに活用するべく手筈をとっております。

かつて円谷プロが制作した「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」は監修した円谷英二のこだわりもあってリテイクを繰り返し、高質な内容の作品となっていましたが、と同時に、制作費高騰という弱点にもつながっていました。これがTBSが難色を示した最大の理由でした。その懸念を払拭するために、この「製作にあたって」という項が付け加えられたのです。制作費については「ずばり380万でOK!」と書かれています。これについては白石雅彦著「『帰ってきたウルトラマン』の復活」で田口成光がこう証言しています。

田口 この頃の企画書は、僕が書いていましたが、三八〇万なんて具体的な数字は書き込めませんよ。これは(円谷)一さんでしょうね。この頃の企画書は、TBSが作った営業用があったらしいから、その企画書だったんじゃないかな?

田口も白石も推察する通り、380万という数字は円谷一が弾き出したものだと私も思います。

さてこの企画書には興味深いことに、MAT基地、隊員服、各種兵器、後にキングザウルス3世、タッコング、アーストロン、ザザーンとして登場する怪獣のデザインがスチールで撮影されています。かなり本格的に企画が始動していたことがわかります。怪獣のデザインはおそらく池谷仙克によるものだったのでしょう。

このダンピングが功を奏し、「帰ってきたウルトラマン」の制作が決まリました。この後、上原正三が招聘され、実際の放送内容となっていくのです。まさに、ウルトラマンが帰ってきたのです。

おわりに

この記事では円谷一、橋本洋二らの尽力で「帰ってきたウルトラマン」の制作が始まるまでの流れを簡単に書きました。この後、上原正三が加わって番組の内容が固まっていきますが、それについてはおいおい書いていきましょう。

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橋本洋二

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」のTBS側プロデューサーだった橋本洋二について簡単に取り上げます。

ウルトラシリーズに参加するまで

橋本洋二は1931(昭和6)年生まれです。出生地は鳥取でしたが、後に一家は東京へ転居しました。東京教育大学を卒業後はラジオ東京、後の東京放送ことTBSに入社しました。本人の希望で社会部に入ったのですが、その時の上司が大森直道で、後にオックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」をTBSが肩代わりするのを決断した人物です。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」で白石も書いていますが、人の縁は何かの拍子で拍子で繋がる物なのでしょう。さて橋本が制作していたのは差別問題を取り上げたラジオ番組でした。これが後のテーマ主義に繋がるのは間違いありません。ですが、大森の要請に応え、テレビ編成局映画部へ移りました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」での橋本自身の証言です。

橋本「テレビ編成局映画部に来なさい」ということでした。もちろん僕も、テレビの方に移りたい、と希望を出していたんですよ。『ウルトラマン』を観ていて、これは絶対にやりたい、と思いましたからね。子供の頃からSF冒険小説が好きだった、というのはあります。当時、毎日小学生新聞というのに、海野十三の『火星兵団』が連載されていたんです。それが楽しみでね。毎朝早起きして、新聞受けがカタッと鳴ったらすぐ飛びついて読んでいました(笑)。ほかに山中峯太郎の『見えない飛行機』とか江戸川乱歩の『怪人二十面相』とか、そういうものばかり読んでいたんです。

というわけで橋本は円谷一も所属し、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』にも社員を出向させていた映画部へ移ったのでした。1966年のことです。最初は昼メロの制作や邦画の買い付けを担当していたのですが、『コメットさん』を担当したことで転機が訪れます。この番組を担当した理由は白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」によれば、次の通りでした。

橋本 僕はラジオで子供向け番組を二年半くらいやっていたんです。だから局のムードとしては、あいつは子供向けが得意そうだ、ということだったんですね。


『コメットさん』は、昼帯を担当していた時期とダブりますね。当時は佐々木君(佐々木守)とブレインストーミングで毎日のように会っていました。『コメットさん』の企画作りには、親交のあった山中恒も顔を出していましたが、二人がしきりに「お前も手伝え」と言うんで、参加したんですよ。『コメットさん』は国際放映との共同制作でしたが、そこのプロデューサーともめましてね。佐々木君と一緒にその方と会ったんですが、僕らはコメットさんの衣装はミニスカートをイメージしていました。そうしたら向こうは「そうじゃない、戦争中のもんぺ姿だ」って(笑)。全然違うから喧嘩になっちゃいましてね。それで「お前がやれ」みたいなことになった。ただ企画には最初から関与していたし、やれと言われても問題はありませんでした。

私は完成作品しか見たことがありませんが、主役のコメットさんがもんぺ姿というのは全く想像できません。『コメットさん』には途中から市川森一も参加しています。おそらく橋本が子供番組に関わるようになったのはこれがきっかけなのでしょう。

ウルトラセブン

さて橋本は「ウルトラセブン」のプロデューサーになりました。白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」によれば、円谷英二の日記に橋本の名が初めて出るのは1968年2月29日だそうです。そして橋本洋二の記憶と他の資料を突き合わせると、橋本洋二が「ウルトラセブン」の制作に本格的に関わるようになるのは満田かずほが演出した第28話「700キロを突っ走れ!」と第29話「ひとりぼっちの地球人」からのようです。

さて、昔は橋本の参加により「ウルトラセブン」がドラマ重視になった、と特撮ファンの間では言われた物です。私もそう思っていました。しかし、白石雅彦著「『ウルトラセブン』の帰還」でも「『怪奇大作戦』の挑戦」でも再三再四書かれていますが、実態は違います。橋本参加の真の目的は「ウルトラセブン」の次の作品をどういう内容にするのかを決めることでした。なので「ウルトラセブン」制作自体は引き続き三輪俊道プロデューサーが中心になって行なわれ、橋本は「ウルトラセブン」の後継作品の企画を決める事が業務の中心になっていました。事実、白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」では橋本も上原正三もこう証言しています。

橋本 そうです。プロデューサーを代わったわけではなく、諸々のリサーチですね。『ウルトラセブン』の後半に何本かフィルムを見せてもらって、金ちゃん(金城哲夫)を紹介してもらったんですよ。まず僕が思ったのは、隊員達が「はい」「はい」って言っているのがわからなかった。隊員達それぞれ、違う考えがあってもいいはずなのに、判で押したように「はい」「はい」。これは昔の軍隊と同じでしょう。だからそういうふうじゃないドラマを書きたいと言ったんです。後にウエショー(上原正三)が、「あれを聞いて、金城がひっくり返っていましたよ」って言ってましたね(笑)。だから円谷プロは僕のことを「変なやつが来ているな」と思っただろうし、そういう意味では、決して評判のいいプロデューサーだったとは思わないです。

上原 橋本さんは、プロデューサーというより有能な官僚という感じだったね。それで企画室に入るなり「隊長は〝出動!〟しか言わないんですか?」って言ったんです。「例えば朝、奥さんと喧嘩をしてきたかも知れない。だとしたらその日その日の感情で、同じ〝出動!〟でも違うニュアンスがあるはずだ、とね。脚本の台詞まで口を出すプロデューサーは、それまでにいなかったからね。それほど脚本には厳しかった。理詰めで来るからね。僕や市川(森一)は、プロットを何本もボツにされたよ。

その本領は「怪奇大作戦」から発揮されることになります。

怪奇大作戦

さて「怪奇大作戦」は「ウルトラセブン」の次作品です。ここで橋本は本格的に円谷プロと制作に関わることになります。その経緯についてはこちらを見てください。

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制作第1話は金城哲夫が脚本を書き、円谷一が演出した「人喰い蛾」でしたが、この話は円谷英二が作り直しを命じたために放送第1話には間に合わず、制作第2話「壁ぬけ男」が繰り上がってしまいました。この一件は金城哲夫円谷一の二人に影響を与えました。橋本洋二は白石雅彦著「『怪奇大作戦』の挑戦」でこう証言しています。

橋本  要するに「スパイ大作戦」に影響されていたんですね。僕は、そういったものをやる気ない、ちゃんと人間を描いたものをやらないといけない、と伝えていたんですけど、あの頃金城さんは、「マイティジャック」の方で忙しかったでしょう。だからあまり打ち合わせをする時間がなかったんですね。その成果、企画書が出来ても、僕の考えとは根本的に何かが違っていたんです。

白石は同書で、橋本洋二が思い描いていたのは橋本が考えていた路線は「スパイ大作戦」ではなく「七人の刑事」のそれなのだ、と書いています。「七人の刑事」は犯行を冒した人間のドラマを描いた作品でした。金城も円谷一もそのようなドラマを得意にはしていませんでした。ですが円谷一は映画部の最古参メンバーでしたし、当時のTBS局内での肩書きはテレビ本部編成局映画部副部長・副参事でした。なので「人喰い蛾」は、円谷一が「これをやりたい」と言えば、それを通さなければならない空気があったので作る事ができた作品だったのでしょう。そう、白石は推測しています。ただ円谷一は「人喰い蛾」の後は九州でロケした「吸血地獄」と「光る通り魔」を演出しただけでした。それは、この頃から円谷プロダクションを取り巻く状況が悪化したことも影響していたのだと白石は推測しています。

結局、「怪奇大作戦」は2クール全26話で終了しました。怪奇大作戦」の平均視聴率は22.0%でした。この後も橋本洋二は子供番組の制作に関わっていきます。「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」が放送されていた日曜夜7時からのタケダアワー、そして『コメットさん』が放送されていた月曜7時半からのブラザー劇場。これが後々「帰ってきたウルトラマン」の制作に繋がっていくことになるのです。

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円谷一

はじめに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」制作当時、円谷プロダクションの社長を務めていた円谷一を取り上げます。

略歴

円谷一は1931(昭和6)年生まれ。円谷英二と円谷マサノの間に生まれました。彼の弟が円谷皐(1935(昭和10)年生まれ)と円谷粲(1944(昭和19)年生まれ)です。彼の足跡は白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」が詳しいです。子供の頃はバイオリンを弾くなど音楽好きで本当は音楽学校に通いたかったようですが、音楽は趣味でやれと言われた上に学習院大学理学部を受けたら受かってしまったため、そのまま通っていたそうです。なので円谷英二は大学を出たら核実験でもやるのかと思っていたと『キネマ旬報』1963年2月15日号に載っていた対談(英二、一、皐)で語っています。もともと映像には興味がなかったと言うのは興味深い話ですが、芸術には興味があったと言うのはわかります。一は大学ではホッケー部に所属し、室内楽団でセカンドバイオリンを担当していたそうです。なお円谷皐は玉川学園の高等部時代は盛んに演劇をやっていたそうです。

ですが、円谷英二が「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」を制作した時には東宝の撮影所で有川貞昌らと共に円谷英二の仕事を手伝いました。これが映像の仕事を行なったきっかけです。ですが、東宝には入らず、TBSに入社しています。余談ですが、円谷皐はフジテレビ、円谷粲は円谷プロダクションに入っています。

さてTBSではディレクターになり、「煙の王様」と言うドラマを全編フィルム撮影で制作し、芸術祭賞を受賞しています。その後、映画部に移り、青島幸男主演の「いまに見ておれ」などのドラマを制作しています。その頃、後にウルトラシリーズでコンビを組む金城哲夫円谷プロダクションに入ります。

ウルトラシリーズへの参加

その頃、円谷プロはテレビ制作を始めようとしていました。フジテレビと進めていた「WOO」とTBSと進めていた「アンバランス」です。そして「WOO」の制作が決まりかけました。そこで円谷英二は当時、世界に2台しかなかったオックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」を注文しました。ところが、「WOO」の制作は契約締結の直前になって話が流れてしまったのです。さあ困りました。この機械は当時4000万円もするような高額な機械です。キャンセルしようとしたところ、既に機械は船に載せられて日本へ向かっていました。金策に窮した英二は一と皐に相談し、結局、一の口利きでTBSの大森編成部長が決断し、オックスベリー社のオプチカルプリンター「1200シリーズ」はTBSが代わりに購入することになりました。そんな高額な機械を購入したわけですから、死蔵しておくわけにも行きません。こうしてTBSは円谷プロに「アンバランス」制作を発注しました。

こうして円谷プロで番組制作が始まったのですが、円谷一は興味を示しませんでした。これはあくまでも私見ですが、父英二と同じ特撮作品を作って比べられるのが嫌だったのでしょう。大学まで映像関係に興味を持っていなかったこともそれが理由なのだと思います。ですが、制作の熊谷健が持ってきた「あけてくれ!」のシノプシスを観て一の意見は変わり、「俺が撮る」と言い切りました。これは怪獣が全く出てこない異次元SFものでした。熊谷は白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」で次の証言を残しています。

一さんの場合、どこか人情家だし、わりとヒューマンなドラマが好きなんですね。本質的に、特撮もの、サスペンスものの人ではないんです。でもそこはお父さんの会社ですし、心配だからいろいろ面倒を見ながら作品を撮っていたということなのでしょう。

ウルトラQ』の頃の一さんは『煙の王様』を撮ったあとですから、TBSでは看板ディレクターですよね。だから最初の頃は、「俺、撮るのヤダよ」とすごく嫌がっていました。それで僕が小山内美江子の「あけてくれ!」のプロットを持ってきたら、「あぁこれだったらいいなぁ」と言ったんです。一さんが「あけてくれ!」のプロット読んだのは、まだシリーズがクランクインする前だったんじゃないかな? そのとき一さんはTBSで忙しい人だし、撮るだろうとは思っていなかったんです。考えてみれば、あれだと怪獣が出ないでしょう。一さんとしては、どこかに英二さんの『ゴジラ』があって、自分は怪獣ものを作るのは嫌だ、という気持ちがあったような気がします。

こうして円谷一円谷プロのTBS制作作品に参加することになったのです。皮肉なことに円谷一が参加した「アンバランス」はその後、怪獣路線の「ウルトラQ」に転換しましたが、「ウルトラQ」はヒットし、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」と番組は続くことになります。

ウルトラQ

こうして円谷一は「アンバランス」の制作に参加しましたが、番組はTBSのプロデューサー拵井巍の意見で怪獣路線に転換することになりました。と言うわけで番組名は「ウルトラQ」に変更されました。ですが一は次々と番組で新基軸を打ち出していきます。まず「宇宙からの贈りもの」(脚本:金城哲夫特技監督:川上景司)は番組初の宇宙怪獣もの。「五郎とゴロー」(脚本:金城哲夫特技監督有川貞昌)は普通の動物が巨大化するという話。「1/8計画」(脚本:金城哲夫特技監督有川貞昌)は怪獣を登場させるのではなく、逆に人間を縮小させると言うのが大筋。「ゴメスを倒せ!」(脚本:千束北男、特技監督:小泉一)は複数の怪獣ゴメスとリトラが戦う話。「クモ男爵」(脚本:金城哲夫特技監督:小泉一)は特撮セットが少なく、登場する怪獣は操演怪獣の大蜘蛛タランチュラが暗躍するホラー。最後の制作となった「ガラダマ」(脚本:金城哲夫特技監督:的場徹)は番組初のロボット怪獣ものです。白石雅彦は円谷一は日本初のことをするのが好きだったと評していますが、その意見は正しいでしょう。それから、「あけてくれ!」と「ゴメスを倒せ!」以外は全て金城哲夫が脚本を書いています。「五郎とゴロー」は口の利けない五郎と巨大化してしまったゴローとの交流を描いた話で、怪獣ものではあるのですが、もともと一が好きだった「どこか人情家だし、わりとヒューマンなドラマ」です。最後、ゴローは眠り薬入りのミルクを飲んで眠ってしまいますが、五郎は自分があげたミルクに眠り薬が仕込まれていたことなど知らされておらず、ゴローが眠りこけるのを見て、その理由と仕込まれた事情を察します。ゴローは眠っている間にイーリヤン島へ運ばれる手筈になっていました。五郎は心の中で叫び声を挙げます。この叫び、金城哲夫が書いた脚本では「ゴロー」と叫ぶことになっていますが、完成作ではただ叫び声を挙げるだけです。もちろんこの改変は円谷一によるもので、一は金城哲夫の意図を汲んだ上で改変したのです。

また制作の仕事だけではなく人も呼んでいます。TBSの飯島敏宏と実相寺昭雄に脚本を書かせています。実相寺の書いた脚本は映像化されませんでしたが、飯島敏宏の書いた脚本は上記の通り、映像化されました。「ゴメスを倒せ!」を書いた千束北男は飯島のペンネームなのです。飯島は後に「ウルトラQ」で4本監督を務めています。一はただのディレクターではなく、プロデューサーとしての才能も発揮して行くことになるのです。

また拵井巍は次の証言を白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」で次の証言を残しています。

僕は放送の第1回は「宇宙からの贈りもの」を持ってきたんです。

(中略)

そしたら円谷君がどうもそれを聞きつけたらしくてね、俺のところに来たんですよ。「栫井さんが作ったリストを見ると『宇宙からの贈りもの』が第1回放送、1月2日からの放送になっていて、あとは色々並べてある。後については何も言わないけれども、一番最初の放送を『ゴメスを倒せ!』にしてもらえないか」と。「どうして?」と訊いたらね。「飯島さんに他の名前で書いてもらって自分で演出したんだ」と言うんだよ。TBSでは原則的に、ディレクターが脚本を書くことは認めていなかったんだけど、けっこうペンネームで書いていたんだよね。でも円谷君が「飯島さんには『ウルトラQ』路線に大変貢献してもらった。頼みます」と言うから、そうしようと。

なお円谷一はあれほど制作にこだわった「あけてくれ!」を本放送から外すと聞かされた時は渋々ながら同意したそうです。

ウルトラマン

さて「ウルトラQ」は好評で「ウルトラマン」が制作されることになりました。円谷一ウルトラマンでは次の8本を演出しています。

第1話と最終話を金城哲夫と共に担当しているのがミソで、当時、円谷一金城哲夫は名コンビと言われていました。一は金城にいろいろ注文を出したそうです。また第8話と第38話が制作された経緯についてはこちらをご覧ください。

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さて他に特筆すべきは第12話と第13話です。クレジットでは特技監督は高野宏一となっていたのですが、実際は円谷一特技監督も務めています。次の制作話は「ウルトラマン」初演出の実相寺昭雄担当ということもあり、高野宏一の時間を空ける必要があったことに加えて、別の思惑もあったようです。白石雅彦著「円谷一ウルトラQと“テレビ映画”の時代」での熊谷健の証言です。

一さんがドドンゴペスター特技監督をやったのは、ある意味、英二さんがやらなかった特撮、同じ特撮ものをやるなら、親父さんを越えてやろう、という気持ちがあったのではないでしょうか? ともに人間が2人入るタイプの着ぐるみですしね。

この証言もあってか、白石雅彦は別の著書「ウルトラマンの飛翔」で、要するに特技監督をやりたかったのではないか、と大胆な推測をしています。本編と特撮を兼務するというのは後に事例が出てきますが、ウルトラシリーズでは初です。

円谷プロダクション2代目社長就任

思わず話が長くなりましたが、円谷一はTBS社員としてドラマ制作に力を入れていましたが、「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」と続いていった頃、転機が訪れます。それは父円谷英二の体調悪化です。それが始まったのは1968年頃。その様子を見て1969年11月30日、一はTBSを依願退職しました。1969年12月から円谷英二静岡県で療養生活に入りましたが、1970年1月25日、狭心症心臓喘息のため亡くなったのでした。享年68。そして円谷一円谷プロダクションの社長に就任したのです。

おわりに

この記事では「帰ってきたウルトラマン」当時の円谷プロダクション社長でプロデューサーを務めた円谷一について書きました。長さの関係で「ウルトラセブン」の手前辺りで終わってしまいましたが、この続きはTBS側のプロデューサー橋本洋二のところで触れることにします。

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はじめに - 帰ってきたウルトラマン Advent Calendar 2021 -

私と「帰ってきたウルトラマン

私は最近、Kindleで通勤の電車の中や会社の昼休み中に本を読むようにしています。歴史の本を読むことが多かったのですが、ある日、「ウルトラマン80」や「科学戦隊ダイナマン」に出演した萩原佐代子さんのInstagramで倉山満著「ウルトラマンの伝言 日本人の守るべき神話」という本が紹介されていました。で読んでみたのですが、この本、努力の後は認められるのですが、細部には誤りが多く、史料として取り上げるには注意が必要という代物でした。もちろん、間違いのない箇所もありますが。

 

今年は昨年のように Advent Calendar を独りで書こうとは思っていなかったのですが、「ウルトラマンの伝言 日本人の守るべき神話」を読んでから、火がつきました。ちょうど今年は「帰ってきたウルトラマン」が放送されて50年目です。当時の私は2歳。本放送を観た記憶などなく、当時の写真を観ても「仮面ライダー」の方に興味が行っていたのは明らかでした。

 

そんな私が「帰ってきたウルトラマン」を観た記憶が残っているのは小学校の夏休みの午前10時頃にTBSで再放送されていたのが最初です。タッコングによって郷秀樹が命を落し、ウルトラマンが乗り移る第1話、ウルトラマンがキングザウルス3世に敗れる第4話、ビーコンが登場する第21話、そしてプリズ魔との戦いが終わった後、郷秀樹が這いつくばりながら何かを呟く第35話を観た記憶が残っています。ただその時に他の話を観た記憶は残っていません。夏休みということもあって放送局が話を厳選して放送したのかもしれませんし、外へ遊びに行ってしまったせいなのかもしれません。いずれにしろ、どれも鮮明に記憶が残っています。ただ当時はドラマの方にはあまり目が行っておらず、怪獣とウルトラマンの戦いの方に興味が行っていたことは否めません。

 

その後、「帰ってきたウルトラマン」を本格的に観るようになったのは中学生になってからだと思います。小学生の頃もTBSでは毎朝ウルトラシリーズを再放送していたのですが、当時はテレビのあった部屋で両親が寝ていた関係で早朝の放送を観ることはできませんでした。

 

さて大学生になった頃、今度はNHK BS2(当時)でウルトラシリーズや「怪奇大作戦」が再放送されるようになりました。子供の頃に観られなかったこともあって私は食い入るように各作品を観ました。子供の頃とは違ってドラマの細部にも目がいくようになりました。

 

さらに年齢を重ねると、ウルトラマンスーツアクターを務めたきくち英一が書いた『ウルトラマンダンディー 帰ってきたウルトラマンを演った男』を読み、スタッフの方にも目が行くようになりました。ファミリー劇場WOWOWでの再放送は何度も観直しました。

 

帰ってきたウルトラマン」は放送時期から第2期ウルトラシリーズに分類される作品です。手探りながら潤沢な予算を投じて作られた「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」よりも評価が低くなってしまうのは否めません。予算は第一期ウルトラシリーズよりも低いため、映像の完成度は低いのも否めません。しかし、私が一番好きなウルトラシリーズは「帰ってきたウルトラマン」です。その理由をこれから書いていこうと思います。

 

「さあ来週もみんなで見よう。」は名古屋章担当の予告編の決まり文句。みんなでその軌跡を追ってみましょう。

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さらば、上原正三

上原正三が亡くなったのは2020年1月2日。彼の生涯を振り返ってきましたが、私は彼が書いた作品を観て育ってきたのだなあとしみじみと思いました。私が取り上げなかった作品の一部を挙げても、これだけあります。

上原が結婚したのは1969年。彼は自分の子供の反応もみたりしていたそうです。以前も書きましたが、上原の年齢が私の父と近かったのも関連があるのだと思います。

彼は金城哲夫と出会って上京し、金城とは対照的に琉球人としてヤマトに残る道を選びました。その反骨精神が最後の最後まで貫かれたのだろうと思います。上原正三はウルトラ5つの誓いで「他人の力をあてにしないこと」と書きました。これは市川森一からは「人は一人では生きていけない」と言われたそうですが、ヤマトで独りで生きていく自分の生き方を挙げたものだったのでしょう。ただ市川とは仲が良かったのは以前も書いた通りです。仲が良かったからこそ、そういう論争もできたのでしょう。

また引用した本を書いてくださった白石雅彦さんをはじめとする皆さん、本当に参考になりました。ありがとうございます。

さて最後に一つの逸話を書きましょう。それは長坂秀佳についての話です。上原が多作だったのはこれまで書いた通りですが、「快傑ズバット大全」で長坂はインタビューで次のエピソードを話しています。ある時、上原正三が「週8本執筆した」という話を長坂は耳にしたそうです。それを聞いた長坂は「本数で負けてなるものか。1度抜いてやろう」と1週間で12本執筆したことがあったのだそうです。ただし、作品に質を落とさないようにするため、脚本だけではなくテレビ番組の構成台本の仕事も含めたそうですが。これを読んだ私は、なんでも日本一という早川健長坂秀佳自身を書いたものだったのだなあ、と思いました。おそらく上原自身はそんな話を聞いたとしても意に介さなかったでしょうが。

上原正三さん、本当にお疲れ様でした。

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(番外編)光の国から僕らのために―金城哲夫伝―

はじめに

この記事では劇団民藝が2016年と2018年に上演した「光の国から僕らのために―金城哲夫伝―」について取り上げます。

www.gekidanmingei.co.jp

光の国から僕らのために―金城哲夫伝―

この演劇は金城哲夫の生涯を題材にした演劇です。2016年には紀伊國屋サザンシアターで上演され、2018年には沖縄も含めた各地で上演されました。

この演劇は冒頭、ラジオ番組で自衛隊のヘリに乗り空から実況している金城哲夫がまるで自衛隊を賛美しているかとも受け取れる発言をしてしまい、ラジオ局に抗議の電話が殺到するところから始まります。金城は無邪気に発言したと思うのですが、沖縄に住む人には自衛隊在日アメリカ軍基地には複雑な感情を抱いています。金城の発言はそれに対する配慮が足りないのではないかと受け取られたのです。私はこの事件を冒頭に持ってきたところがとてもよかったと思いました。金城哲夫の立ち位置を象徴する事件だったからです。

この演劇は以後、2部構成となっていました。第1部では上原正三を金城が円谷一に紹介してから、ウルトラシリーズが続々と続くものの、やがて金城が帰郷するまでを描いていました。主な登場人物は金城哲夫上原正三円谷一、そして満田かずほです。

第2部では金城が帰郷し、沖縄でラジオ番組のキャスターをしたり沖縄芝居を書いたり、海洋博のプロデュースといった仕事を通して壁にぶち当たる様子を描いていました。第2部の最後では時空を超えて上原正三も登場し、金城とその後の様子(上原自身はヤマトに残り、東映などの子供番組を書いてきたこと)を語り会う場面もあります。

私が観劇した日はたまたま役者の方と観客が語り合う時間が設けられている日でした。座長を務めた、円谷一役の千葉茂則さんによれば、上原正三さんも稽古の場にお見えになったそうです。おそらく脚本を書いた畑澤聖悟などともお話しなさったと思います。

この演劇でも金城と上原は太陽と月のような関係になっていたように思います。1999年に上原正三金城哲夫を題材とした小説「金城哲夫 ウルトラマン島唄」を書いています。この小説は元々は沖縄へ帰ってからの金城を題材とした映画のために書いた脚本が元になっていたようです。上原にとって金城哲夫との交友は忘れ難いものだったに違いありません。

観客のほとんどは私よりも年配の方だったので、金城哲夫を取り上げた話がどれだけ響いたのかはわかりませんが、私にはやはり冒頭の場面が印象深く残っています。

機会があれば、今度は上原正三の物語が描かれたら良いのではないかなあと当時思いました。

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宇宙刑事シャイダー

はじめに

この記事では1984年3月2日から1985年3月8日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜19:30 - 20:00に全49話が放送された「宇宙刑事シャイダー」を取り上げます。

宇宙刑事シャイダー

宇宙刑事シリーズ3作目は前2作と大きく違う点が少なくとも2つ挙げられます。まず1つ目は前2作が主人公の男性の宇宙刑事JACから起用していたのですが、この作品では相棒の女性宇宙刑事JACから起用した点です。そして2つ目は1つ目から必然的に生まれた作風の違いとなりますが、主人公となる男性の宇宙刑事はそれまでの2名と違って訓練途中の未熟な刑事と設定されたことです。必然的に女性刑事の活躍もそれまでと違って激増しました。

さて主人公の最終オーディションに残ったのは円谷浩と吉田淳でした。最終的に主人公に選ばれたのは円谷浩でしたが、これは上原正三の強力な推薦があったためです。円谷浩の父親は円谷一、そう、上原正三にとっては恩人に当たる人です。上原は一から受けた恩に報いたかったのです。加えて特撮を担当していた矢島信男も松竹時代は円谷英二とともに仕事をし、「ミラーマン」では円谷一とともに仕事をした縁もありました。なので主人公に抜擢されたのは円谷浩となったのです。その代わり、上原は「宇宙刑事シャイダー」の脚本全49話を書き上げています。

さて主役の沢村大(円谷浩)のコードネームであるシャイダーはかつて地球でムー帝国を倒した過去を持つ戦士シャイダーにちなんで名付けられています。当初は明らかになっていませんでしたが、後に沢村大は戦士シャイダーの子孫であることが判明します。

敵側もムー帝国に関係があります。そもそも首領のクビライは戦士シャイダーに首と胴体をはねられ、胴体をサイボーグ化して現代まで生き残ったのです。

話を銀河連邦警察に戻しましょう。クビライ率いる不思議界フーマはそれまでの敵よりも強大で宇宙全土で暴れ回っていました。そのため、沢村大ことシャイダーとアニー(森永奈緒美)、そして彼らの同期も訓練半ばで戦地に赴くことになりました。シャイダーとアニーは協力しながらフーマと戦い、後にクビライを倒すことに成功したのです。

二人が乗る戦艦がバビロスです。バビロスは巨大ロボ形態のバトルフォーメーションの他、巨大な銃形態であるシューティング・フォーメーションに変形します。シューティング・フォーメーションの状態から放つ波動砲ビッグマグナムはフーマの巨大戦艦(だと思います)を何度も破壊しました。ただバンクシーンが多かった気はしますけど。

またシャイダーとアニーが操るのが超次元戦闘車シャイアンです。こちらはアニーが操縦する場面が多かった印象があります。そしてシャイダーが乗るオートバイがブルーホークです。

沢村大とアニーは別々に調査することが多かったです。そして、沢村大を演じる円谷浩JAC出身でなかったこともあり、JAC所属の森永奈緒美演じるアニーが活躍する場面が全2作と比べて激増しました。もちろん、沢村大の格闘する場面をなしにするわけには行きませんので、円谷浩も格闘場面を演じて傷だらけになりながら奮戦したそうですが、吹き替えも多用していました。

未熟な戦士ということは特訓場面もあるわけですが、私が覚えている限りでは第19話「アニー危機一髪」だけしかありません。この話ではシャイダーは不思議獣マグマグに一度敗れ、コム長官に心の弱さを指摘された沢村大は滝の流れを日本刀で切る技の習得を命じられます。「ウルトラマンレオ」のツルク星人の話を思い出しますが、「ウルトラマンレオ」が特訓だらけだったのとは対照的に、「宇宙刑事シャイダー」はこれだけしかないのです。そういえば市川森一が嫌ったスポ根ものを取り入れた「帰ってきたウルトラマン」でも特訓は第4話のみです。これはメインシナリオライターのセンスの差だったのではないかと思いますね。なお、第19話を書くにあたって上原が「ウルトラマンレオ」を意識したかどうかは知りません。

さて地球人のレギュラーですが、大山小次郎は引き続き登場します。ただし、この作品ではペットショップを営み、第17話からは沢村大を下宿させるようになりました。それでもUFOを追いかける情熱は失っていなかったようで、「宇宙刑事シャイダー」でもフーマの悪事に巻き込まれることが多々あったように思います。またアニーにも好意を寄せていました。彼の甥や姪も登場します。なお星野月子はバード星でコム長官の補佐を務めています。

不思議界フーマ

さて敵のフーマについて書きましょう。首領のクビライについては既に書きました。彼の孫娘が神官ポー(吉田淳)です。沢村大と同年代のように見えますが、実は年齢1万2000歳です。クビライからエネルギーをもらって若さを保っていたのです。ポーの両親については語られていません。クビライ自体は100万年くらい生きているという設定で、戦士シャイダーの活躍も1万2千年前の出来事です。

戦闘の指揮をとるのがヘスラー指揮官で「征伐!」が口癖です。彼の弟のヒムリーが第28話で登場しますが、ヒムリーはヘスラーに取って代わろうという野心を抱いていたため、ヘスラーの策略で抹殺されます。

ヘスラーの配下にいるのがギャル軍団です。ギャル1、ギャル2、ギャル3、ギャル4、ギャル5です。

フーマの作戦は人間の心を支配することで侵略を進める戦略をとったものが中心になっています。「地球を傷つけずに征服するため直接的な武力に訴えない」という説得力ある理由づけがなされていました。このため衣食住や娯楽、教育などが侵略作戦に利用され、身近なところにまで魔手を伸ばし人間の心の闇をえぐる作戦が実に多いです。しばしば子どもがターゲットとされるため、子どもが絡んだエピソードも増えました。劇中でしばしば流れた不思議ソングも不気味さを増幅させておりました。またシャイダーやアニーの心の未熟なところを突く作戦も取られました。そのためシャイダーとアニーが対立することがありましたが、事件解決後はお互いに成長し、二人の絆は強くなっていきました。これも二人が訓練半ばで派遣した戦士であることから生まれた話なのでしょう。「ウルトラマンA」で市川森一が発案した構想が奇しくもこの番組で描かれているのが興味深いです。

さてフーマが作戦に用いるのが不思議獣です。初期は卵から生まれる様子が描かれていました。第1話と第2話を担当した澤井信一郎監督の演出では、ギャル軍団の踊りや流れる音楽、そして神官ポーのセリフも相まって何だか淫靡な描写になっていました。子供の頃はなんとも思わなかったのですが、東映チャンネルで放送されたのを観た時はそう思いました。ただ流石に毎回流すのには長すぎたのか、中盤からは誕生の場面は省略されています。なお不思議獣の名前はバリバリとかペトペトというように二文字の繰り返しとなっています。「UFOロボグレンダイザー」の円盤獣やベガ獣と似た命名規則なのですが、上原がそれを流用したかどうかはわかりません。なお不思議獣はフーマが生み出した不思議時空では通常の4倍の力を発揮できます。

おわりに

番組は1年間の予定を全うしました。次作「巨獣特捜ジャスピオン」の準備が遅れたため終盤で3話延長されました。円谷浩森永奈緒美の代表作になったことは間違いありません。残念ながら円谷浩は若くして亡くなりましたが、上原正三円谷一への恩を返すことに成功したと言えるでしょう。なお実質的な最終回は第48話になっており、第49話ではそれまで揃わなかった宇宙刑事3人が西新宿に集まり、それまでの地球での活動を振り返る話となりました。最後にガイラー将軍そっくりの人(栗原敏)が登場する遊びもありましたけどね。

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